c71の一日

生活の記録

男には悪気がない

主語が大きいと言われるのだろうが、男と言う属性というものはあるし、社会の仕組みとして存在するので主語を大きく書く。
本来こんな但し書きを書くこともいやだ。



意地悪な女性も意地悪な男性もいるが、その大きな差は、女性の場合は相手にとって「いやなことをしている」と少なくとも知った上で、やっているが、男性はむしろ「良いことをしている」つもりで、自信を持ってそれをしているということだ。ようは覚悟がない。
悪意に対して責任感がない。

男性は、男と言うだけで、能力がなくても、敬意を払って何かしてもらえるので、能力を伸ばそうとする動機に乏しいし、他人がいやがっていてもそのことに気がつく動機がない。だから鈍いままで放置される。そういうものだと思われている。

わたしが二十歳前半の頃、還暦の男性にセクハラをされた。
向こうはむろん、口説いたつもりだろう。
わたしは彼がおじいちゃんだし、会社のえらい人だと思っていたから、ちらつかされていた「えさ」、おれといると良い思いをできるよみたいなことも、単に親切だろうけどうざいな、と思い、敬老の気持ちで相手をした。
手をつなぎたいとかチークを踊りたいとかもっと飲んでほしいとかタクシーに一緒に載ろうと言われて、ようやく気づいて、会社にちくった。
この逆のことがあったとしても、女の人は、相手に悪いと思いながらするだろうし、相手が条件を付けることをもちろん受け入れるだろう。覚悟があるだろう。
だけど、この件の場合は、男性の方が「えらそうに」わたしに接したのが「鈍い」と思った。
そもそも、女性が二十代の男に手を出そうとする上限の年齢は四十代がありえるかな、と思えるラインだ。
そのくらいになると、女性だって遠慮する。だけど、男性は、いくつになっても「俺はナイスミドルだし若い女にもてる」と思っている。思っているか、思いすらしないで声をかけたら女がよってくる、よってこないとしたら、女が悪い、女が憎い、ってなる。そもそも、声をかけずにもてたいと思っているようだから、救いがない話だ。
婚活の話を聞くと、四十代の男は、子どもを産める歳だからといって、二十代の女や、三十代の女を狙うようだ。
しかし、二十代の女にとって、四十代の男にはメリットがない。人として魅力があれば別だろうが。
二十代の女は、同じくらいの歳の男と付き合った方が、自分の子どもが二十代になったときに、まだ、四十代でいられるメリットの方が大きい。
若い女にとっては、四十代の男は「お父さんの世代」だ。


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女の人がいやがらせをするとき、相手からの反撃を覚悟している人の方が多いだろう。だけど、男の人は、いやなことをしているつもりすらないから、反撃されると、自分が一方的に、攻撃されたように感じて、うろたえる。そして、被害者だと言い始める。
彼らはとても鈍いので、加害をしていることに気がつかない。


自分の地位が、実力の結果だと信じている。そして、女の人が、同じくらい稼げないのは、男女の身体的な差や能力の差だから合理的だと信じてる。
ようするに身の程を知らない。
身の程を知ることを教育だと定義すると、彼らには教育がない。
教育がないから、差別による優越を受け入れ、それが自分の実力だと勘違いし、その上、思うようにならないこと自体を、自分たちに対する「差別」だと呼ぶ。思うようになることが、デフォルトだから、そうじゃないことは、誰かが悪意を持って邪魔していると考えるようだ。
彼らには教育が必要だ。だが、彼らは傲慢すぎて、教育を受け入れることや自分に教育が必要だと言うことが理解できない。
彼らには悪意を持って嫌がらせをする度量がそもそもない。だから、努力も出来ない。
彼らがしていると思っている努力は、端から見ると、ほとんど意味がないものだが。それについて来れない女性は、能力が低いと決めつける。そもそもその「作法」が合理的だろうかと疑う視点をついにもてなかった。

わたしが思う男性の特徴は「受動的」だということだ。
誰かが何かしてくれることを常に待っている人が多い。
世話をしてもらうのが当然だと思っていて、それは公私で変わらない。
だから、家庭でも、会社でも、男性がいると効率が悪くなる。
女性は自分の仕事の他に、男性の世話まで引き受けて、そして、プライドも傷つけないようにしないといけないから。
それなのに、男性は、自分がしていることが悪いとも思えない。悪気がない。
悪気があれば、改善する余地があるのに。

こうして、日本は衰退し、わたしはそれが喜ばしい。


追記c71.hatenablog.com