c71の一日

生活の記録

フェミニズムはあなたを救わない

フェミニズムが、救ってくれないという人、特に男性を見かける。
弱者男性を救ってくれないとかなんとか。


フェミニズムは宗教じゃないから、誰かを救ったりしない。
ただ、その思考を知ることで、勝手に自分が救われていくだけだ。
自分を救うための手段や道具としてそれがある。
他人をケアするためにあるわけじゃない。だから、ケアを待つ人にフェミニズムは何も役立たない。


女性は、フェミニズムを知って、誰かのケアのために人生を捧げることをいったん考え直す。その結果、人生を主体的に選べる。それが、ケアを選ぶのかそうでないのか、自分で選び直せるのだ。
そのことが、状況から逃れられないとしても、自分の人生を生き直せることにつながる。


わたしは昔、女の人は嫁にいって、だんなの両親を介護して、子どもの世話をして、年を取ったら、いつ自分の人生を生きるのか、不思議だった。女は何のために生きているのかと思った。搾取と言う言葉は知らなかったけれど、つながりの中で、女だけが、その人生を奪われているように感じた。


介護は素晴らしいこと、そのことに人生を捧げることは素晴らしいことと、言う一方で、介護は誰もやりたくないこともみんなが知っていたように思う。
こうした、素朴な疑問を抱いた子どもだったわたしは、フェミニズムを知っていろいろと納得がいった。
常識に引っ張られることもあるけれど、わたしはそこそこ主体的に今人生を生きられている。
母親に、虐待されて、人生を乗っ取られていた時期もあるけれど、フェミニズムが支点となって、わたしに力を与えてくれた。
わたしは自由になりつつある。



わたしは愚かだ。愚かだけれど、考えるための枠組みを与えてくれたものに感謝する。
女という属性を代表することはできない。そして、女という属性だから語ることができる言葉があるとも思えない。
だけど、女と言う属性をもつわたしが語る言葉があるはずだと思っている。


エマワトソンの演説のように、男性に配慮した言葉でも叩かれる現実を見れば、男性に配慮することが虚しいことがわかる。
男性は、自分自身で生きるということにまだ到達していない。
だから、女が自分で生きていく自分のために生きていく、その考え方は男性も自由にする可能性がある、という演説にすら反発する。
男性は、ケアされないと生きていけないと自分を貶めている。そういう風に自分を定義している。
それでいながら、ケアされている自覚がないから、ケアから逃れることも出来ない。
ケアされると言うことは、虐待されているということと裏表の関係にある。
子どもだったら、ケアされないと死んでしまうけれど、大人になったら「ケアし、される」関係でなくては、どちらかが搾取されている可能性が高い。ケアされることによって、生きる活力を盗まれることもあるし、ケアを強要されることで、人生を盗まれることもある。両方ある。
女性は、そのことについてずっと考えているけれど、男性はまだそのことについて、考えが足りないようだ。



フェミニズムは、誰のことも救わない。
自分で勝手に救われていくだけだ。
女性のためのものだから、女性同士で助け合うことはある。
だけど、男性を助けることは少ない。そうしたら。女性が男性をケアする構造に立ち戻ってしまう。
それはフェミニズムではない。
男性は受動的で、救われることを待っている。
お姫様が王子様を待つように。ケアされることを夢見続け、要求し続ける。それが叶わないと、女性を攻撃し、人生を嘆く。
自分が自分の人生を生きてほしいと思う。
そうしたら、フェミニズムが男性を救わないなんて寝言が出てこなくなる。