c71の一日

生活の記録

発達障害当事者と、その親は仲間じゃないと思ってる

発達障害当事者と、発達障害の子どもをもつ親は、重なるようでいて、重ならないと思っている。
そこを、勘違いすると、喧嘩になる。
価値観が違いすぎる。


発達障害の子どもを持つ親は、子どもをなんとか育てないといけないと思っている。心配したり、気をもんだり、そもそも薬を飲ませることに葛藤したりする。
わたしはその葛藤が理解できないし、心配もよくわからない。
だって、わたしは生きているし、薬を飲み始めてだいぶ太ったけれど、死にたい気持ちは収まった。わたしを変えることは、誰にも出来ない。わたし自身にも変えられない。
ただ、社会との付き合い方は教われば、軋轢が減ると思っている。そうすれば、労力や、ストレスが減るだろう。
小さな頃から、その点を教育されていたら、二次障害にならなかっただろう。そう思う。
だけれども、療育が遅れたからと言って、それで、その子の人生が終わるわけじゃないし、療育が失敗したからと言って、その子が自分の人生を切り開けなくなるわけでもないと思っている。
コントロールできないことを受け入れるしかない。

わたしは、定型にあわせた社会のありようをコントロールできないことをわかっている。だから、少しでもコントロールできそうな自分自身をコントロールしようとあがいている。



わたしは以前、書いたエントリで、発達障害の子どもを持つ人に療育が無駄だと読まれてしまって、困ったことがあった。c71.hatenablog.com
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もっと早期にわかったらあれもこれもしたかった、と書いている親御さんについて書いたのだ。
わたしは人生は長いから、大人になってからも療育は可能だと考えている。
そうじゃないと救われない。
だけどそれが、「子どもの頃の療育は必要ないということなのか」ととられてもめたのだ。
「療育は必要なのか、必要じゃないのか、どっちを言いたいの」とか「人のツイートがなければエントリも書けないのか」と陰口を叩かれた。



ときどき、親御さんから、勇気をもらったと書いてもらう一方で、そういうこともある。
療育をすることは、教育ママみたいな感じで子どもを責め立てることじゃないと言いたい気持ちもある。
子どもは、意外と楽しんで勉強する。だから、単なる教育だってそうだから、自分の立ち位置を教えることは、生きやすさを増すのだと思っている。



だけど、わたしの苦しみと、親御さんの苦しみは別だろうと思う。
その苦しみに意味がないとは言わない。
だけど、あまりにも、わたしのせいで障害を持ってしまった、とか、読んでいると、じゃあ、わたしはなんなんだ?とも思う。
思うけれども、その悩みももっともだとも思う。



ネットで、発達障害の家族をもつ人のブログを読んで、いろいろと参考になることも多い。
だけど、自分のアイデンティティをそこにおいて「がんばっているわたし」「素敵なわたし」「前向きなわたし」みたいに振る舞って、パワーゲームをしている人を見ると、気持ちが悪くなる。
やっぱり、発達障害は道具じゃない。わたしも、最初、発達障害だ、ということにショックを受けて、それを主にブログを書いている時期があって、そういうのは、発達障害をアイデンティティにしていると見られた時期もあるだろうと、反省している部分もある。



わたしが好きなブログの人は、自分の立ち位置を探りながら、分析している人だ。
そういう人は好きだ。


でも、同じジャンルにいるからと言って、仲間になれるとは限らないので、それは普通の人間関係と同じだと思う。