c71の一日

生活の記録

お金で買えるものだけが欲しいの

名乗れば、仕事が始められる種類の仕事をしている。人に認められる必要もない。ただ、名乗れば良い仕事。資格もいらない。
今、ここで、名乗って、誰かが頼んでくれたらそれでもう、時間の売買が成り立つ。
サービス業ってそういうこと。
時間とサービスそのものを売る仕事。



誰かの許しなんて、いらないのだった。



わたしは心の中を洗いざらい探してもプロ意識なんてない。今日一日暮らせれば良いのだった。
できれば良い仕事をしたい、その方が楽しいし、時間が過ぎるのが早いので、楽だ。次にもつながる。
わたしはとても人生に疲れていて、先のことを考えたくない。昔は具合がもっと悪かったので、先のことを考えるのがやめられなかった。
先のことを考えたくないから考えない、という態度は進歩だと言える。

わたしは塾で働いている。
良い仕事とは、数字を出すとか、合格率を上げるとか、成績を上げる、ということがイメージされると思う。
だけど、実際には「なんとなく良い気持ちにさせる」ということが最優先事項で、そのために、成績を上げたり、合格率を上げたり、お客さんの話を良く聞いてすっきりさせてあげるということをする。
結果的に、合格率や、成績の向上があると、お客さんが良い気持ちになりやすいので、そうするのだけど、でも、必須じゃない。
他人のことだから、操作はできない。
あとさきでいうと、お客さんが満足するのが大事。それ以外は些末なこと。
極端なことを言えば、満足してもらえるのだったら、授業だって必要ない。
わからないことを教えることも、知らないことを説明することも、しなくたって、お客さんがそれで満足すれば、成り立つ仕事だ。



仕事で食べていけばプロ、だとか、責任感があればプロ、という意見もあるのだと思うけれど、プロと言う言葉はわたしのご飯を食べさせてくれない。
綺麗な服も手に入れられない。

お金はご飯を食べさせてくれて、綺麗な服を手に入れてくれる。わたしは快適な家を維持するためのお金が欲しい。
だから働いている。
それだけで、プロ意識なんてない。
プロ意識は、お客さんから求められるニーズである。わたしがもつ必要はない。持っているふりが必要なときもある。また、わたしが持っていると便利なときもあるだろう。でも、プロ意識は、サービスに入っていない。だから、こちらが何かを削る必要はないのだと思う。
プロ意識というものが、サービス内容に含まれていたら、売れば良い。
だけど、プロ意識そのものを買う人はあまりいないはずだ。
みんな買うのは、違うもの。


それでもプロを名乗りたい人が名乗れば良い。



塾講師でもレベルが低かったり、気に入らない人はたくさんいる。
レベルが低いって言うのは、生徒に手を出したり、授業を放棄するような塾講師だ。
でも、そういう人でも生きていくために、一応は仕事をする。
わたしたちは時間を売っている。その中身が何であれ、気に入る人がいれば成り立つ仕事だ。買う人がいれば売るし、買わない人には売れない。
だから、わたしからみて、この人は気に入らないと思っても、お客さんが気に入っていて、ニーズがあれば成り立つのだった。


塾の仕事は、時間の間、何をしていても、お客さんが満足しさえすれば、取引が成り立つ。
最近、始めた占いも「話を聞くだけでお金をもらうなんて、詐欺だ」という人もいたけれど、お客さんが納得していたら、取引は成り立つ。「お前が名乗るなんて他の人に失礼」と言う人もいるけれど、塾の仕事と同様、仕事を取れればそれで良いのであって、取れる人は仕事が取れる、そうじゃない人は取れないってだけだ。取れない人は残念だってだけだ。
意識がどれだけ高くても、お客さんがつかなかったら、お金がもらえないし、意識がどれだけ低くても、人気が出たらお金がもらえる。



働いて、お金をもらう。
プロ意識ってものがあるとしたら、お金をちゃんと請求するかどうかだ。
クオリティはお客さんが判断することだ。満足しなくても、お金を払うことが最初に決まっていたら、必ず払わないといけない。契約を果たすようなサービスをしていなかったら、払わなくても良い場合がある。
それが決まりだ。



その逆に、売っていないものは買えない。
売っていないものを買うのは泥棒だ。
だから、売るものをはっきりさせないといけない。それは、働くときに大事なことだ。
そして、買うときにも「これは売っているもの。これは売っていないもの」というのをきちんとしないといけない。


もちろん、お客さんに対して、個人的に愛情が持てるときはある。でも、お金はもらわないといけない。
ただ働きを許すと、この世の理が崩れてしまう。
自分も、ただで、人から何かを要求するようになってしまう。それはさもしい。



プロ意識を持って、働いてほしいと思うのは、お客さんの思考だろう。そして、働く人を、縛りたい人の気持ちだろう。経営者だとか。
その証拠に、会社員だったときに、プロ意識の話をする人はいなかった。上司はそんなようなことを言っていたけれど、今、身ひとつで働いている、保障のない環境でもっている切迫した厳しい気持ちとは遠い。会社員のときは、それこそ、首にならないように振る舞っていたら、お金がもらえたものだ。
でも、今はそうじゃない。仕事を作って、お金をもらわないといけない。じゃないと快適に暮らせない。
家も欲しい。服も欲しい。おいしいものも食べたい。趣味もしたい。映画も見たい。本も読みたい。旅もしたい。
その気持ちを叶えるためにはお金が必要だ。お金なしに、提供してくれる人はいない。いたとしても、甘えてばかりだと、親切を強盗することになる。



欲を出せばきりがない。
評価されたい、自慢したい、人より上に立ちたい。
でも、欲をお金に向ければ、お金だけ欲しいと願えば、一生懸命働いて、小金を稼ぐ手段をよくよく考えていけば、それは叶うのだった。
稼ぐための工夫を、プロ意識だと呼ぶ人もいるかもしれない。プロ意識を持つことで、自分を保てることもあるかもしれない。プロ意識をお客さんが要求することもあるかもしれない。雇用主が、プロ意識を持て、と、わたしを管理するために言うこともあるかもしれない。プロ意識は、立場の強い方から、弱い方に要求する場合が多いのではないかと思う。

でも、「プロ意識」そのものは、わたしにお金をくれない。

わたしはお金で買えるものだけが欲しいの。