c71の一日

生活の記録

愛をごみのように捨てたい

このエントリを読んでボロボロ泣いてしまった。

goodnightsweetie.net

うぐーうぐーってなった。


愛って言葉、虫がうごめいているみたいだなーと思ったこともあるけれど、まあまあ円満に関係を築いてきた、と思う。
そもそもわたしは単純なたちだから、ものごとを深く考えないのだ。
考えないわけでもないんだけど、椎名さんとは角度が違うのかな。



わたしは愛を感じ取りにくい子供だった。
条件付きの愛の中で生きていて、病気になった。だから、親と離れた。
そういう大変シンプルな話なんだけど。
思い込みの激しい親の元で育って、その形に合わせるように、型枠にはめられるように育てられて、思い込みの激しい大人になった。
その思い込みフィルターを外すには、親と離れるしかなかった。強力なフィルターフィールドに巻き込まれるからね。


母親は私に愛していると言っていたけれど、からめとられるようでどうにも体が重たくなった。縛り付けられているようで。
大人になって、男に愛しているよと言われたり言ってほしいと頼んだり自分で言ったりしたりもしたけれど、もうね、羽毛のように軽くて。ふわっふわで、単に軽いもの、そういうものだった。なくてもあってもいいもの。


わたしはなくてもあってもいいものを大切にしない。でも、そういうなくてもいいものを大切にすることこそが人生を豊かにするんだって気が付いた。
人生の豊かさなんて何の意味があるんですか、って思ったんだよね。何の役に立つのと。
会ってもなくてもいいもの、って、わたしをふんわり包んでくれる帽子のようなものだったり、コートだったり、マフラーだったり、そういうものなんだよね。

マフラーをまかずに歩く私を寒そうだと言って、マフラーをくれる人は確かにわたしを愛してくれていたと思う。そのマフラーをわたしは決して身に着けなかったのは、意固地になっていたわけじゃなくて、耐えられる寒さに、快適にするためのマフラーを巻くひと手間を、かける価値があるのかって、思ったってこと。



しんしんと降り積もる無音の寒さに、わたしはいつまでも気づかずに、それどころか、静かで快適だなとすら思っていた。
けれど、周りの人から見たら、わたしは寒そうだった。だから、コートとかマフラーとか手袋とか、どしどし手渡されて、いらないよー、ってなって、捨てられもせずにごみの中に暮らしているようだった。


わたしが寒そうだとか寒さが快適じゃないことに気づいてないとかそういうことをひっくるめて、マフラーくれた人は親切だったなと思う。


わたしは手袋もマフラーもしません。快適にするために何かするって発想がなかった。
不調でも別にいいと思っていたし、友達がいなくても目的が遂行できればいいと思っていたし、快適じゃなくてもいいと思っていた。
道具に自分を合わせればいいと思っていた。


不自由で何が困るの?って思っていた。



お金がなかったのもある。
今はお金が愛の代わりに、わたしを暖めたり、快適にしたり、きれいな雰囲気を与えてくれたりする。
だから、わたしは愛がほしくて、お金がほしくて、働いている。
お金が愛の代わりになって、わたしは今までほど寂しくないよ。



自分を大事にするためには、お金が必要だと思っていた。
でも、そうじゃなくて、考え方なんだなと思った。自分に対する愛が、あまり健やかじゃなかったんだね。
口の悪い人には「自己愛が強い」と言われてきたけれど、そういうことを言う人は攻撃的だ。わたしはたとえ最後に一人になったとしても、そういうことを言わない人たちと付き合いたい。


ばしばし言ってくる人の愛ってわたしはいらなくて、ごみのように捨てたい。
マフラーくれた愛みたいなのを一個一個集めたい。