c71の一日

生活の記録

戦いと正しさと誰かの事情とのすり合わせ

感情のごみ箱にならないように、戦わないといけない。
人生は戦いだ。自分の領地を守るための。


尊厳を侵されたら、黙っていてはいけない。黙っていたら、どんどん浸食される。
冷静じゃないとか話が違うとか、まぜっかえす人は常にいる。わかってくれる人のほうが少ない。
侵入している人は何が悪いかわかっていない。


わたしも誰かを踏みにじっていないか、考える。何が正しいのかわからなくなる。


いろいろな生活をしている人がいて、いろいろな好みを持っている人がいる。その人たちに、なるべく口を出さなさないようにしたい。
そして、矛盾しているという人もいるけれど、人権を侵害している行為に対しては戦わないといけない。
人権を侵害しているという理解がない人は多くて、そういう人は他人の人権を侵害する行為を「権利」だと思っている場合がある。

おっぱい募金について考えていたら、心無いコメントをぶつけてくる人も多かった。
そういう人たちは、問題について、他人事だから、人の恐怖をもてあそぶ余裕があるんだろう。

たとえば、何かで生計を立てることを「悪い」という人はいて、でもそうしないとその人は死ぬ場合「悪い」と言い続けることはどうなんだろう?
すべてが一気に解決すればいいけれど、そうじゃないから、一方的に裁くことはいけない。たとえ自分のためだとしても。


西洋人が、アジアの文化を野蛮だとして、つぶそうとしたら、かえって事態が悪化したという歴史がある。
それで、その人たちを教育して、その人たちの判断に任せるという方法がとられたそう。
例えば、性器切除とか。



性器切除は確かにわたしの感覚だと「悪い」んだけど、その環境で生きていくしかなかったら、その行為自体に介入してただ悪いと言ったら、その人たちは殺されたり生きていけなくなってしまう。


それと同じように貧乏について「こうしたらよい」ということも、病人に対して「こうしたらいい」ということも、マイノリティに「こちらの正解を押し付けること」も、ばっさり「こちらとあちら」を分断させることになる。


こちらから見ると正解は明らかでも、「それができない」という場合はたくさんある。でも、マジョリティだと、そのことがわからなくなる。


わたしもコンビニで働けるなら、塾で働けるなら「これができるはず」と言われて、苦しかったことがある。それとこれとは、別で、できない理由があって、でも、それは、言語化すると取るに足らない理由だとみなされてしまうから。
今では皿洗いも少しずつできるようになったけれど、「できない」頃があった。
なんでできないのかと言われてもできないからできないのだとしか言いようがなかった。
鬱で具合が悪くて着替えに何時間もかかったころも「なぜ」に答えられなかった。


できる時には簡単なことだから、そこにどんな操作や心理状況があるのか、特に弱い時には言葉にできないし、言葉にしたとしても、受け止めてもらえない。
理解なんてされなくていい、ただ、受け止めてもらえたらという願いも、ぜいたく品なのだった。誰もそんな義理はないから。

他人を理解する、尊重するって無関心にも似ている。
だけど、助けが必要な場合があって、当事者じゃない立場から何かできたらと思うこともある。
何もできないなら無関心のほうが助かるって場面もたくさんあると思う。
だから、難しい。

それでも、いろいろ考えたい。考えることだけじゃ何の役にも立たないと思うのだけど、文章を書くことも一つの行動だと思うから。
社会性のないわたしができることの一つだと思うから。

わたしは、病気についてのマイノリティだけど、他のマイノリティのことも考えたいのは、そういうわけだ。
わたしにはなんの包容力もないけれど、わたしが感じたつらさを、自分が他人にさせるのは嫌だ。
(ただし、人を差別したうえで発生している「権利」みたいなものには常に抗議する)




貧乏だったり、スティグマを負わされていたりすると「その原因をやめればいい」と簡単に提案されがちだけれど「スティグマを負わせる側に問題があるのだ」という答えは、常に身に着けていたい。
原因をなくすことは当事者にはできないから。できないというか「ない」。できない、なら、本当は当事者もなくしたいという気持ちがある感じだけど、誇りがあろうがなかろうが、「できないんじゃなくて、原因をなくすという選択肢がない」ということは忘れたくない。


わたしの常識で、どれだけ「社会的に悪」だったり「悪影響がある」んだとしても、それが、人を強く損なうことじゃなければ、ただ、わたしの常識を変えていくほうがずっといい。わたしの常識と、誰かの「事情や好み」はいつもすり合わせたい。何かを裁いて終わりにするほど、世界は単純じゃない。そういうことを、ちゃんと覚えていないといけない。

わたしは自分のためにいつも戦っていくつもりだけど、わたしの正しさが、人を切り刻まないように、いつも気を付けないといけないんだって思う。


追記
題名が「戦いと正しさと誰かの「やむにやまれなさ」とのすりあわせ」だったのですが、「やむにやまれず働いてる人ばかりではないという指摘があったので、題名を変えました。

そして、原因があるとかないとかではなくて、働いてる人ももちろんいて、わたしが今の仕事に何となくついているのと同じように、他の人もそうだという指摘を受けたので、追記します。