c71の一日

生活の記録

輪になって踊ろうぐるぐると

goodnightsweetie.net
椎名さんがアンサーをくれました。


それで、「輪になって話したい」ってことだと思いました。*1



ぐるぐる考えていて、どこにもいけなかったわたしが、一緒に踊ってくれる人*2を見つけたような気がして、それはそれはうれしかったです。
最初泣いてしまって、感謝の文字しか読めなかったですね。


当事者性の高い人たちが話しているだけだと「その人たちがなんか言っているけど、関係ないもんね」と言いながら、関係ない世界が待ち受けています。でもそこには誰だっていつだって行くことができる。


障害を持つことも、いつ何時誰だってなりえる状態で、そうなったら死ぬと思っている人もいると思いますが、死ぬのもなかなか大変で、というか、それは「今障害を持ってるなら死ね」と言っていることに等しく。だから、一緒になって考えてほしいって、思う。

から、わたしも、フラットに、自由に固定概念を離れて、考えていきたいと思うのです。


常識は便利なものですが、不便でもある。生きにくくするものでもあります。本当の望みを常識が覆ってしまって、どうしたら幸せになれるのかわからなくする、阻むものになります。


わたしは個人的になぜ生きるのか、というのは、幸せの追求のためだと思っています。
そのためには、どんなことでもしていきたい。
その一つとして、差別について考えています。わたしだけ幸せになるってことはありえなくて、差別はある意味、便利なもので、これはこう、と決めつけていたら日常が確固たるものだと感じられやすいから、網の目のようにすべてのものに覆っているんだと思っています。差別って便利で、自分を「あの人よりはましだから幸せだ」という風に、自分を言いくるめてごまかす役に立ちます。
でも、それをしていると、同じように、自分のことを「あの人より」と言って、誰かがやっぱり踏みつけにくるわけです。
それをやめたいです。


だから、差別について考えたい。


わたしは、親切にいたら、だいたい大まかなことは間違えないと思っています。
でも、大まかですから、実際に間違えます。
こういう時に指摘されたことはありがたい事でした。

正解を求めたことも、みっともなかったですけど、ああ、誰も正解を持ってないんだな、そこは、作っていくしかないというか、話し合っていくことが大事なのだなと思いました。


わたしが、人に決めつけられたくなかったり、推し量られたくなかったり、「ああいうことをするから、ああなったんだ」と言われたりすることが嫌なように、他の人にもしたくないと思います。


たとえば、わたしは持病があるため、身体的な特徴があります。でも、そのことを人は「生活が良くないからああなるんだ」「こうしたら治るのに」と言ってきます。言われたくないですやっぱり。
わたしはふだん身体的な特徴を気にしないで生きています。気にするのは人に言われたときです。その人が言わなかったら、わたしはなんの不便もない身体的特徴を抱えていられます。負担が増えるのです。でも、言ってくる人は自分がいい人だと思っていってきます。
だから、わたしがそれに対して何かを言うことはありません。
ただ、がっかりして、傷つきます。


わたしは自分がされたようにはしたくないです。
だから、ぐるぐる同じところを回っていて、何も発展性がないけれども、でも、一緒になってぐるぐる回ってくれる人がいたら、そこには何かの力が働いて、独りぼっちではない、新しい世界が開けると思うのです。

*1:椎名さんと個人的に話して、話すって言葉と、踊るって言葉の意味が違っているという指摘を受けました。わたしは個人的にぐるぐる孤独に考えてるより、話し合うほうがいいし楽しいと思ってこういう風に書きました。踊る、って言葉と、話す、って言葉が違っていました。すみません

*2:つまり話し合ってくれる人、答えをくれる人じゃなくて