c71の一日

生活の記録

幸せを妨げる「普通」の呪い

間違いも正しさも、災厄はすべてを押し流していく。


わたしは病気だ。病気になると、「悪いことをしたから」病気なのだと思っている人や「体に悪いことをしているから」病気だと思っている人に出くわす。


たしかに、整理整頓料理掃除を完ぺきにして適度に働いて適度に休んで運動をしていたら、健康になるだろう。
でも、それができないのが病気だし、最低なりにいつも何か選択しないといけない。



普通になりたいって望みはいつまでも最後まで残っていて、今ある幸せを見せなくする。
わたしは確かに過労で、疲労を感じられなくなるくらいになっていて、夜中に起きだして吐いてしまったりもするけれど、でも、働けていて仕事が楽しいから幸せだという見方もある。


頭の中の普通がいつもジャッジするんだよ。
それで目が雲って幸せを遮る。
普通の幸せを手に入れるには自分を普通に合わせないといけないから。
人には個性があるから、その個性が枠からはみ出る。
それを切り刻んでいけば痛い。
痛さに耐えていたらそれは幸せなのか?
痛いことは幸せなのか。自分の枠からはみ出る個性を削ることの痛みを軽視してはないか。
普通になりたいって望みはわたしの深いところから出た本当の望みかというと疑わしい。
子を産み育てつがいになり、仕事をするのが正しいと思っている。
でも、そんなことをできるのは、限られた人だ。わたしはその限られた人になれなさそうだ。
だったら実現可能な現実を愛せればそれでいいんだ。


頑張っても頑張っても、頑張った先がないと、疲労に耐えられない。


心のままに生きたいのだけど、その心のまま、が「呪い」に汚染されていたら、周りの普通に押し流されて心のままに生きられない。
だから、結局点検するのは自分の心なんだ。


災厄も病気も、正しい人も間違った人もすべてを押し流していく。
押し流されるようなことをしていたから悪いんだなんてことはなくて、ただ、やってくる。そして命や健康を奪っていく。


孤独じゃない、働いて、何もかもあるのに、焦っているのはなぜなのか。
それは、植え付けられたことじゃないのか。
わたしの本当の望みは何か考えてもきりがないけれど。


少しずつ良くなるためには失敗も恐れない。
わたしの傷はその証。


人生は一回しかなくて、そのときの状態の最善しか選べない。あとだしで、こうすればよかったのには、意味がない。
後悔しないようにと言っても、いつだって、比較の問題だ。


美醜は比較の問題で良い。美しい人もそうじゃない人もいる。でも、幸せの基準を人に売り渡してはいけない。そうしたら、自分にとって幸せで満足できることが、できなくなってしまう。
いつもいつも、自分より上に立って、けなしてくる人はいる。その言葉を飲み込まずに、はねかえせますように。


自分が自分でいられるように、できる範囲でやっていること、頑張っていることも頑張っていないことも受け入れられますように。