c71の一日

生活の記録

他人の人生は見世物か

他人の人生は見世物じゃない。


どんなに自分からかけ離れているように見えても、近づき方にはマナーがある。



動物園の動物を見るように、人を見てはいけない。
人には人生があって、その背景がある。その背景を知ることなしに「そんなことわたしにはできない」「耐えられない」というのは残酷だ。


わたしも自分の人生をケアマネに語ったところ「わたしなら耐えられない」と言われて、とても傷ついた。
すぐに抗議して、理解してもらった。だから、引きずってはいないし、彼女はいいひとだ。


「わたしなら耐えられない」という言葉は、人を刺す。
それは、分断だからだ。


「わたしには耐えられない」「でもこの人には耐えられる」というのは、他人の痛みに対して、「この人は痛みに強いのだろう」「我慢できる人だったのだろう」ということを言っている。


でも、痛みに耐えたくて耐えている人はいない。
耐えるしかないから、耐えるのだ。

それと同じように、たとえば、

t.co
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勘違いブスで自信がある人に興味がある、って失礼だと思う。
誰だって、自信をもっていいんだから。


自分が顔のことで自信を持てないとしても、それは異常なことで、そう思わされる社会について考えるべきだ。
それなのに、「自信を持っている女の自意識に興味がある」という風に至るのは異常なことだ。
健全な人は健全な人だ。
自分がそうじゃないからと言って、自分から見てブスな人が自信があるからと言って、その人たちを貶めながら、研究(?)していい理由にはならない。
自分の内面と向き合うべきだ。


これは働いている人に対しての侮辱だ。
採用した人に対しての侮辱だ。面白半分で、突撃して、自分の「価値」に傷つきそうなことは避けるというのは。



人を観察するとき、観察する側は権力者になる。観察される側は異議申し立てができない。
観察する側と観察される側の、上下構造に敏感でない人は、物を書く資格がない。



それは、書いたものに責任が持てないから、というのもある。
他人事のように、ただ、面白い見世物があるところに、面白がって近づくことは、人を傷つける。


傷つけても書くべきことはたくさんあるだろう。
でも、傷つけたら、そのことについて、きちんと考えなければならない。
それが、人としての尊厳を守るということだ。


自分にはとてもできない、だから、尊敬する、という言葉は、単なる蔑視だ。
蔑視ありきで、観察して、文章を書いた結果が、観察された側を傷つけるのは当たり前だ。



考えても考えても、考えが足りず、傷つけてしまうことはある。わたしにもある。
でも、最初から、傷つけてもいい存在だと相手を考えるのは違う。


人は見世物じゃない。一人の人間だ。



追記

観察する側は、「神」の視点を持っているのか、持ちたいのかと思います。
西洋が、東洋に対するときの視点、それと同じものを再生産してはいけないと思います。
そのせいで、「劣った東洋の文化」を西洋化することになったり、もっというと、植民地支配やその土地のネイティブの大規模な誘拐につながった歴史を考えると、簡単に考えてはいけない問題です。