差別は目に見える形とは限らない
昨日は、眠いのに眠れなくて、つらかった。
死にたい、消えたいと言っていた。
希死念慮が強くて、自分は役に立体人間だから、いなくなってもいいのだ、という風に思っていた。
今日は、一日眠って、死にたい気持ちはなくなった。
わたしが死にたくなるのはどうしてなのかわからない。
わたしは、外の世界との接触をほとんど断った。それは、生きていくのがもうつらくなったからだ。
その代わり、活動の主軸をネットに変えた。
でも、やっぱり、ネットも人の集まりだから、どうしてもいざこざがある。
わたしは、本を書いているのだけど、手伝ってくれている人が、女性差別的なふるまいをした。
差別発言というと、みんな、わかりやすく、侮蔑した表現なんだと思う。
でも、わたしの書いたものを私物化したり、わたしの文章のデータを他人に送ったり、わたしがその振る舞いで具合悪いと訴えたら「自分も疲れていた」と言い出したり、そういうことの積み重ねが、わたしを疲れさせて、死にたくさせた。
一生懸命、手伝ってくれていると思っていたから、仲間たちは引き留めた。そして、何が悪かったのか、長い時間かけて説明してくれた。
でも、やっぱり伝わらなかった。
わたしたちの仲間は、男女関係なく、男性中心社会から弾き飛ばされた人たちばかりで、差別問題に敏感だ。
でも、その人は、自分は差別を見たことがないというようなことを言った。身近に、そういう人がいないからわからないと。
いるのに、見えないのは、その人が、打ち明けられるような態度をしていないからだと思う。だれも、わかってもらえなさそうな人に、つらい気持ちの内を話さない。
その人がしたことも、ほかの人に話せば、そのくらいのこと、というだろう。
でも、わたしは軽視されていると感じたし、一緒に本を作ることは無理だと思った。
その人は、属性によって態度を変えることはないから、自分が差別をするとは考えていなかった、といった。
属性によって態度を変えないことが差別になることもある。
変えていないつもりでも、彼が最初に相談をして、わたしの言っていることをどう思うか聞いたのは男性だった。
女性に聞けばよいのにと思った。
訂正:女性にも聞いていたそうです。
わかりにくい差別でも、本人は差別だと思っていなくても、軽視されたり侮辱されると、体調を崩し、死にたくもなるんだなと思った。
属性によって態度を変えていないつもりでも、こちらからは、変えているように見える。最終的な決定権を男性に託すことや、無意識に選択される行動そのものが、差別的なふるまいになることは、微妙な問題すぎて、個別に伝えていくしかない。
わたしは、社会から遠ざかったつもりで、人を厳選しているつもりでも、社会構造からは逃げられないんだなと思った。