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c71の一日

生活の記録

障害者として生きる、という本を出版しました

相模原の大量殺戮事件を受けて、障害者に死んでほしいと思っている人、というアンケートが出回りました。
わたしは、それに対抗するために、障害者として生きるという本を書きました。

わたしたちは、楽しいことも、苦しいこともあります。

生きているだけで何も役に立たなくてよいと思っています。
できることがあれば、それはそれでよいし、そうじゃなくても、生きること自体、素晴らしいことだと思っています。
そのことを書きました。

c71.hatenablog.com


今、レビュー中というステータスなので、まだ無料キャンペーンにできません。
多くの人に読んでいただきたいため、KDPのステータスが変わり次第、五日間の無料キャンペーンを行います。
今回は発禁処分にならないと思います。
少々お待ちください。もちろん、買っていただけましたら、うれしいです。
障害者として生きる: 自閉症スペクトラムの診断が出てから、人生を楽しむまで

みたらし祭に行ったよ

今日はみたらし祭に行った。

下鴨神社に行った。森があって涼しかった。
池の中に、歩いて行って、膝まで使って、清めてもらうお祭りだ。
ろうそくに火をつけて、裁断のようなものにたてる。
小さい子が泣いていたり、はしゃいだりしていて、かわいかった。
浴衣の女性は、どんなふうに歩いたのか気になった。
膝の上まで水が来るところがあるから、どうやってクリアしたんだろう。


水から上がった後は、冷水を飲んで、体内も清めて、無病息災を願う。そういうお祭りだった。
どんなお祭りかわからなかったけど、たまたますいている時間に行けて、ラッキーだった。


少しずつ体調が戻ってきて、歩けるようになってきた。
昨日は三条に行ってお香を買った。とてもいい香りで、気に入っている。
毎日、ツイッターのフォローフォロワー関係の人と会って、おすすめのお店に連れて行ってもらっている。
はしたてというところのどんぶりもおいしかった。
他にも毎日あんみつや、かき氷を食べている。
今日は、昆布の佃煮を食べた。おいしかった。コーヒーもおいしい。
でも、京都のキャベツは苦くて辛い。どうしてキャベツが苦いんだ。郵送中に拷問でも受けているんだろうか…。
完全な自炊をしようとしていたけれど、あきらめて、冷凍のカボチャやパプリカや、肉を買って、レンジで温めて、温野菜サラダを作ってしのいでいる。京都の野菜は、出汁で煮ないと食べられない……。でもテクがない。
京都のすごいところは、どこの食べ物屋さんに行っても、おいしいものが出てくるところだ。インテリアも素敵だ。

鴨川デートをするのが楽しい。朝、五時に起きて、五時半から六時くらいの間の涼しい時間に鴨川を歩くと、鷺がたくさんいてかわいい。鴨もいる。鴨は子連れだ。


家に、友達を呼んで、だらだらするのも楽しい。京都の人は、ものごとをストレートにはっきり言ってくれるので、付き合うのが楽だ。もちろん、そうじゃない人もいるのだろうけど、今まで会った人は、直球で要求を伝えてくれるから、こちらも楽。おもてなしをしたいと思っても、察することができないから、こうしてほしい、こうしたい、と言ってくれることはありがたい。


通りによって暑さが違うこともわかった。緊張感がまるでないので、西だとか、南だとか、全然わからなくなった。そのうえ、右も左も文字通り怪しい。パートナーの六帖にすべてを任せて歩いている。

歩くだけで、小さいお店がたくさんあったり、小さい会社があったりして、のんびりできる。友達も言っていたけれど、無職でも、圧力を感じず、放っておいてくれるところが楽だと言っていた。その雰囲気は感じる。


ひらひら、きれいな色の服を着ている人が、女性にも男性にも多くて、目にも楽しい。


京都はとても楽しい。あと、一週間いられる。幸せだ。

障碍者として生きる

障碍者になる前も、わたしは困っていた。
診断が出てからも、わたしはまだ障碍者じゃなかった。
そのあと便利にするために、障碍者手帳を取得した。
そして、わたしは障碍者になった。


生きること自体に困難を感じていた。名前がついて、それについて調べられるようになった。
診断がついても、生きやすくはならない。
病気は、環境への正常な反応だから、環境を変えて負担を少なくすると、生きやすくなる。
薬で治療しても、それは、環境に適応するために無理をしているだけだから、結局、環境を変えることでしか、生きやすくはならない。


わたしはたまたま、パートナーの六帖と出会って、ケアをしてもらえるようになったから、生き方を変えることができた。
今は療養をしている。これからは、ホームページ作成や、店舗の出店の手伝いをしたりしながら、なるべく家でできる仕事をしたいと思う。パソコン一つで仕事できるのならば、旅から旅の生活ができる。


人と関わることは好きだけれど、上下関係がある世界ではもう働けない。自分でできることはたくさんあるから、そうやって生きていこうと思う。


障碍者と言っても、いろいろな障碍者がいる。わたしのようにできることが、まあまあある障碍者もいるし、できることに出会っていない障碍者もいる。生きていることに精いっぱいの障碍者もいる。


何もできなくても、何も役に立たなくても、生きることをバックアップするために社会がある。
でも、社会が、障碍者を殺す。


いわゆる健常者と言っても、できることがあるとは限らない。
できることがあれば、生きていてもよくて、できないことがあれば、死んだほうがいいんだったら、みんな死ぬしかない。
「できること」というものは、時代が決めることだから、時代によっては、スキルをつけても、産業ごとなくなることもある。そうしたら、あるとき、「できることがある人」であっても「できることがない人」に変化する場合がある。



死んでほしい、と言って、人を殺す事件があった。誰にも、人を「この人は生きてもいい」と決めることはできないのに。
自分のことでさえ、自分は生きてもいい、生きてはいけない、なんて、決めることは間違っている。


「この人は死んだほうが幸せだ」と勝手に思うことも、間違っている。


社会は人の命を守るための集合体だ。弱い人も強い人も、悪い人も良い人も、生きていられるようにするための集合体だ。


それを壊す行為は許されない。だから、相模原事件で論争が起きること自体が、理解できない。


はたから見て、「この人は死んだほうが楽かな」と思うこと自体は止められない。
でも、口にすることは間違っている。それは、社会の否定だし、社会に生きる自分自身の否定だから。
人の命を、コントロールできる、と思うのは思い上がりだ。
誰が生きているのが良くて、誰が死ぬのが良いのかなんて、考えること自体が罪だ。


わたしにも死んでほしい人がいる。嫌がらせをされたら、死ね、殺す、と言ってしまうこともある。わたし自身の命が危機にさらされているときにはそういう。


でも、殺したことはないし、死なせたこともない。そこにブレーキはある。


野に放たれた危険な人がいる。精神科のお医者さんが、入院患者は、自分の病気を把握して、それと向き合っている人たちだ。尊敬すると言っていた。
しかし、野に放たれた危険な人は、自分がなにかまずいことになっていると、自覚していない。精神病の人は、治療を通して、自分の困ったところを自覚して、向き合っている。



病院では、自分が困っていると自覚している人が集まる。精神科に入院をしていると、そこをついてくる人がいる。
わたしから見れば、そういう人こそ、まさに「野に放たれた危険な人」だ。自分自身に向き合うことをしていないから。


相模原の事件は、自分と向き合うことなく、外部に原因を求めた事件だと思う。自分と向き合わず、ただ、自分の保身と、勝手な思い込みで、人の命を奪った。理性的に、計画的に。


わたしは理性を信用しない。合理的に、理性的にふるまって、人をたくさん殺した歴史を知っているから。



感情はとても大事だ。何かをいつくしんで育てることや、手助けしながら生きることが大事だ。

そこから切り離されて、自分自身の中に沈み込んでしまったとき、危ないことが起きる。
それは、病気とは関係ない。病気は、単に、自分の生きづらさの一つの表現だ。
生きづらさを表現せずに、工夫もせずに生きてしまって、外部に、生きづらさの原因を求めたとき、残酷なことを人はするのだと思う。


病気の人を、狂っているという人がいる。判断能力がない。まともじゃないと。


しかし、まともに考えて、くるっておらず、判断能力があって、恐ろしいことをする人がいる。
その人たちに名づける名前がまだない。人を殺すことと、病気は関係がないのに、それをごっちゃにする人がいる。
病気は人を殺さない。


理性と、正義感、私怨が人を殺す。


無料キャンペーンを実施するので少しお待ちください。7月30日から5日間です。
障害者として生きる: 自閉症スペクトラムの診断が出てから、人生を楽しむまで

性被害悪用問題の論点、これは人権侵害問題だ

  • 性暴力被害の政治的な利用について。


週刊金曜日の部数減少、赤字問題がある。日本会議批判で、評判になった「加害者」をたたくことで、部数を稼ごうとしたのではないか。
また、中島岳志氏は、週刊金曜日の編集部員である。中島氏と、菅野完氏は、個人的な対立関係にある。
操作と加害-二次加害を盾にした悪質さ: Black Bird
菅野完氏と中島岳志氏との確執?: Black Bird
接点は「選挙ステッカー」?: Black Bird

より
以下はすべて推測だ。

性暴力被害を利用して、週刊金曜日は、菅野氏をたたき、部数を増やすことができる。


また、中島氏は私怨を晴らし、言論封殺を行う機会を得たことになる。ゴヒエツコ氏は、2012年7月9日の被害があった以前から、選挙ステッカー運動で、週刊金曜日とかかわりがあることが分かっている。



週刊金曜日と、中島氏、ゴヒエツコ氏が集まることで、菅野完氏を、性暴力加害者と仕立て上げ、社会的に抹殺(ゴヒエツコ氏の発言がある)しようとしたのではないか。

そして、実際に、菅野氏は、事件があったとみられる一か月後に、「自主的に」反原発連を脱退し、離婚をしている。
反原発連にいたのは、一か月未満だ。菅野氏は、何かに所属するたびに、ゴヒエツコ氏に訴えられ、そこから抜けることを余儀なくされている。



週刊金曜日、中島氏、ゴヒエツコ氏の陰謀に、「性暴力被害者」たちのしてきた努力が、利用された。


  • 今回のことで、性被害を訴え、「セカンドレイプ」という概念を悪用することで人を操作する事態が生まれた。

ゴヒエツコ氏は、絨毯爆撃的に、一方的に性暴力被害を訴えるメールを送り付けて、性暴力サバイバーに近づいた。

性暴力被害者を名乗れば、性暴力サバイバーを操ることができる。
性暴力サバイバーに、性暴力被害者をケアすることは不可能である。それは、プロの仕事なのだが、今回の件で、サバイバーの気持ちはサバイバーにしかわからないから、サバイバーにケアをさせるべき、という意見を読んだ。
しかし、今回の件で、性暴力サバイバーは、性暴力被害者を訴える者に対して、冷静な判断をとることができず、拒絶もできず、巻き込まれてしまうということがわかった。気持ちがわかるからと言って、適切な行動をとることはできない。


  • 「加害者」について。

人権問題について深く考えている人ほど、その訴えを退けにくい。周りからの圧力もある。被害内容について、触れてはならない、というタブーがあるため、また、「していない」ことを証明することは難しいため、一度「加害者」と言われてしまったら、そこから逃れられない。
また、ゴヒエツコ氏は、菅野氏を社会的に抹殺したいと言っていた。あってはならないことだが、実現してしまった。


  • 性暴力被害者について。


性暴力を訴えると、「本当にあったのか」「冤罪ではないのか」「どんなふうにレイプされたのか」など、詮索されてきたという歴史がある。性暴力自体を、軽い被害だと思われてきた。
だから、性暴力被害者たちは、サバイバーとして、「被害を軽く見積もるな」「被害の内容を詮索するな」という風に、「セカンドレイプ」という言葉を広めてきた。


しかし、今回の件で、その歴史や努力が踏みにじられてしまった。
悪用されてしまった。被害者の訴えをそのまま受け取って寄り添う、ということが難しい事態になった。


  • 傍観者について。


わたしは、経緯を明らかにしたときに、「セカンドレイプをするな」という風に言われた。「傷ついていたら何をしてもいいのか」「被害者探しに加担するのか」ということだ。この言葉はゴヒエツコたちも多用していた。


傍観者たちは、性暴力被害者を名乗る人からの加害を無効化することに、加担した。そのことに対しての自覚がない。


  • 人権侵害問題

この件で、わたしは、ゴヒエツコ氏から、人権侵害を受けた。
しかし、彼女が「性暴力被害者」を名乗ることで、その問題は、見えなくされた。
それについては、菅野氏も同じ被害を受けている。言論を封殺されるという形で。
彼は、係争中だということで、発言が事実上できない。

  • 左翼、右翼問題

わたしは左翼だ。この件で、右翼である菅野氏を擁護する形になった。
そのため、左翼から右翼へ転向したとみられた。
しかし、右翼であろうと左翼であろうと、人権侵害は、放っておいてよい問題ではない。

性暴力被害のために、動いてきた人々のすべての善意を踏みにじった事件だ。

性被害の悪用、フリーライダー、沈黙の強制

「傷ついたら何をしてもいいと思っているのか」と複数の人に言われた。
わたしがしたことは、加害の経緯を明らかにしたことだけなのに、どうしてそれを言われるのだろう。
ゴヒエツコこそ、それを言われるべきだ。



菅野完氏も、性暴力を訴えられたことで、活動や言論、生活を破壊されたが、なにも反論できなくなった


傷ついたからと言えば、何をしてもいいと思っている。
わたしに対して、秘密の強要、沈黙の強制、言論への裏工作、ただ働き、暴言、対話拒否、嘘、使い捨てをした後、わたしが経緯を明らかにし始めたら、匿名でネットストーカーをする。


ゴヒエツコは、「性被害者」を盾に、人を利用した。そして、反論をすべて「二次加害になる」と言って封じた。


二言目には「セカンドレイプだ」と彼女は言う。わたしたちは、黙る。


問題点は二つある。性被害を主張する相手に、言論をもって立ち向かうことが困難なこと。
今回、わたしに向けられた非難は「セカンドレイプをするのか」「被害者保護はどうでもよくなったのか」「傷ついたからと言って何をしてもいいと思っているのか」だった。経緯を明らかにしただけなのに。


経緯を明らかにするだけで「何をしてもいいのか」と言われるなら、性被害者を名乗られて、加害をされたら、沈黙を強制されるしかなくなる。


ゴヒエツコは、言論統制を二つの形でした。反論を、性被害によって封じたこと。裏工作によって、人のいう発言が、「何かに頼まれてしている発言」なのか、わからなくしたこと。人の発言の信頼性を損なったこと。


また、今まで、性被害者たちが訴えた「二次加害をしないでほしい」という要望を、彼女はフリーライドした。
フリーライドしたうえ、その訴えを無効化した。
セカンドレイプと言いさえすれば、相手を思い通りにでき、黙らせ、ただ働きをされられると彼女は学んでいる。
わたしたちがずっとこつこと、「被害内容に触れないでくれ」と言い続けてきたことを利用したのだ。
だから、わたしは、ゴヒエツコの被害内容に触れざるを得なかった。


「被害内容を詮索しないこと」というルールを利用して、わたしに沈黙を強いたから。
だから、わたしは、それを壊すために、彼女の被害内容に触れた。彼女が、性被害者の願いを踏みにじったことは許せない。


今でも、わたしは「何を言ってもいいと思っているのか」「被害者の被害内容に触れるのか」と言われる。
わたしはゴヒエツコに加害されたのに、それでも、守られるのはゴヒエツコだ。


ゴヒエツコはネットストーカーだ。思い通りにならない相手には、ネットストーカーをする。ほかにも、この問題を扱った人にネットストーカーをしている。だから、ゴヒエツコはストーカーをする人間だ。
菅野氏にもストーカーをしたんだろうと、推測することは、そんなに悪いことだろうか。


無関心か、わたしのしていることに「傷ついたら何をしてもいいのか」という人たちは、性被害を、言論統制に利用されたことに対して、怒らないのだろうか。理解しないだろうか。


性被害者の願いを踏みにじられているのに、「傷つけたら何をしてもいいのか」とわたしに言っている場合だろうか。

性被害者の願いや尊厳を、踏みにじられ、性被害者も、加害者だと名指しされた人も、沈黙を強制される事態を作られてしまったのに。



追記
http://ericd.seesaa.net/s/article/440483016.html
こちらのブログからヒントを得ました。

この方の意見としては、
「被害者非難をしてはいけないという形を丸のみしているため、論点が見えなくなっている。
被害者非難をしてはいけないということで、思考停止になっている。
被害者非難をしてはいけないなら、ゴヒエツコの、被害者である、c71を、非難することは矛盾している。」
という指摘がありました。

キレイは汚い、汚いはキレイ

汚い言葉を使ったり、荒い言葉で文章を書いたせいで、様々な人が離れていった。
また、右翼である菅野氏について書き、性暴力被害者を名乗るゴヒエツコ氏を攻撃したことによって、やはり、人が離れていった。


しかし、わたしは、わたしのために戦ったので、人が離れるのは仕方がない。
離れた人たちは、わたしの名誉や、わたしの被害については見て見ぬふりをしたいのだろう。
わたしの訴える被害については興味がなく、ただ、きれいな言葉や美しい言葉を聞いていたかったのだろう。


政治信条が違っていても、人権は守らなくてはならない。

わたしは、菅野氏の名誉を棄損した。だから、菅野氏の名誉を回復する責任があった。
また、わたし自身の名誉も回復し、精神的なダメージについても、自分自身でケアする必要があった。


形だけ見れば、わたしは、性暴力被害者を攻撃したことになるんだろう。
でも、調べると、彼女は性暴力被害者ではなかった。取材をして、調べた。事実関係を洗うと、彼女のいうことには、整合性がなかった。だから、彼女は、性暴力被害者ではなかったという結論を付けた。


週刊金曜日の中島氏は、菅野氏の論敵だ。中島氏のしたことは、発売前のゲラを配るということで、言論人としては、してはいけないことだった。
週刊金曜日はろくな取材もせず、裏どりもせず、ただ、購読数を増やすための記事を書いた。


それを調べる過程で、わたしは荒い言葉も使ったかもしれない。
でも、加害をされて、加害者に対して、こちらばかり、「丁寧な言葉」を要求されるのは、腹が立つ。


マジョリティならば、きれいな言葉ばかり使っていても、過ごせるだろう。
でも、わたしの戦いは、わたしのものだ。


傷ついているからと言って、怒っているからと言って、言ってはいけないことがあると、何人かに言われたけれど、その人と、わたしの考えは違う。その考えの違いで、人が離れるならばそれで結構だ。


わたしは、このブログを運営していくうえで、さまざまな人と出会った。悪口ばかり言って、粘着する人もいれば、非常によく読んでくれている人もいた。理解者もいる。いろいろだ。とにかく、分母が大きいので、人が離れることにも、近づいてくることにも慣れてしまった。



きれいな言葉ばかりをつかえる人は恵まれているだろう。
わたしは違う。戦うためには、わたしの持ち物をすべて使わないと殺されてしまう。心が死んでしまう。
だから、戦っている。わたしは自分の自由のために戦っている。


きれいな言葉を使って、それで済む世界は、汚いものを見ないで済む世界だ。その世界にいられるのはマジョリティだけだ。恵まれた人たちだけだ。攻撃されずに済む人だ。攻撃されても慰めてくれる人たちだけだ。


攻撃されたら、わたしは戦う。戦わなければ、部屋の片隅で泣いているばかりで、決して、回復しない。自分のために戦うことが、自分を生かすのだ。


わたしは真実を見たい。真実は汚い。汚い言葉を使って真実を書き記したい。きれいな言葉を使う人は、人に迎合する人だ。嫌われないように、保身をする人だ。保身が汚いとは言わないけれど、そこには優劣がない。

性暴力被害者を装った加害の悪質さ、沈黙の強要

性暴力を騙って、人に沈黙を強いることができる。


性暴力被害者たちは、ずっと、二次被害、二次加害を防ぐことをずっと訴えてきた。
そして、それが浸透しつつあった。


ゴヒエツコ氏は、「二次加害」という言葉をよく使った。
わたしに記事を頼むときにも、自分の都合よい形でわたしを動かすために「二次加害を防ぎたいので」と言って、「被害者が言ったこと」「被害者にもらった記事」ということを伏せるように言った。
そうやって、わたしに制約を負わせた。記事の責任をすべてかぶせた。


わたしは、性暴力被害者が、自分の思うように人を利用することがあると想像していなかった。


しかし、ゴヒエツコ氏は、嘘をついて、わたしを利用した。わたしは、沈黙を強いられそうになった。


ゴヒエツコ氏は、性暴力サバイバーを狙って、性暴力サバイバーに、自分のケアをさせ、自分の思い通りに操ろうとした。
性暴力サバイバーに、ほかのサバイバーのケアはできない。

それは、プロがするべき仕事だ。


それなのに、ゴヒエツコ氏は、性暴力サバイバーを名乗る人間を狙って、裏工作を仕掛けた。



わたしは、ゴヒエツコ氏の加害行為を明らかにし、自分の名誉を回復したかった。つまり「頼まれて裏工作に関係する人」「著作権侵害をするブロガー」というレッテルを払しょくしたかった。性暴力被害者を守るために、あえて泥をかぶったので。しかし、彼女は、性暴力被害者ではなかった。性暴力被害者であっても、わたしに加害をすることは許されない。


だから、わたしは汚名を返上することにした。

わたしはセカンドレイプをしたくなかった。だから、ゴヒエツコ氏に従ってしまった。



わたしは沈黙を強いられることが嫌いだ。だから、経緯を公開した。わたし自身への加害行為について抗議をした。

しかし、その過程で、わたしのしていることは「セカンドレイプ」という批判が巻き起こった。


性暴力被害者、もしくは、ゴヒエツコ氏のように、性暴力被害を騙る人間が、なにか悪いことをしても、その経緯を明らかにしようとするだけで「被害者探しにつながるから、それは加害になる」と圧力がかかった。


それは、暴力だ。



被害を訴えられたら、「加害者」はそれについて、反論できなくなる。反論すると、「反省していない」「謝罪は嘘なのか」ということになる。反省していて、謝罪するならば、すべて認めるべきだ、という流れになってしまう。


本当は違う、実際に起きたことは違う、と異議を唱えるだけで、「被害者の訴えを無効化するのか」という流れになる。



セカンドレイプを避けるためにと言われてしまうと、何をされても、反論できない。セカンドレイプに慎重になればなるほど、被害者の意見や感じ方を尊重したいと思うからだ。


ゴヒエツコ氏はそれを利用したようだ。菅野完氏が行く先々で「この人はレイプをした」と言って訴え、彼の社会生活を破壊した。


わたしも、「セカンドレイプをするのか」「セカンドレイプに加担するのか」と責められた。ゴヒエツコ氏が、わたしに対してした加害行為を明らかにしただけなのに。



秘密を一方的に打ち明け、裏工作に引き込むのは暴力だ。性被害者のためになら、と思う善意を利用した暴力だ。



この事件で、性暴力被害者が今まで訴えてきた、「二次加害をしないでほしい」という訴えの流れは、非常に傷ついた。これから先、二次被害を訴えることは非常に難しくなるだろう。二次被害を盾に、沈黙を強いるやり方が生まれてしまったから。

以下は仮説だ。

ゴヒエツコ氏は、性暴力被害者を装って、「加害者」の生活を破壊した。訴えれば、なんでも通る、というやり方をした。
これで、被害者たちは、被害をますます訴えにくくなる。疑いの目で見られる。被害を盾にして、相手を操作しているのではないか、という目で見られていく。


ただでさえ、性暴力については「冤罪」ということが問題になっていて、その「冤罪なんじゃないか」という目にさらされるために、被害を訴えることが難しい状況が続いていたのに。それが、ようやく、風通しよく、被害を訴えることのできる土壌が育ちつつあったのに。


それを、ゴヒエツコ氏は、自分の都合のために利用した。



性暴力被害者を装えば、人を操作できる。社会的に抹殺できる。人権に対して、自覚的な人ほど、それに対抗することが難しくなる。


わたしもこのエントリを書くことには勇気がいった。紋切り型の「冤罪」問題にしたくなかった。



しかし、実際に、わたしに起きたことは「性暴力被害者を騙る人間に加害された」ということだ。そのことを明らかにした。


わたしは、沈黙を強いられることが嫌いだ。どんな形でも。わたしは、いつも、自分の考えのために戦う。


この件は、本当に残念だ。性暴力被害者も嘘をつく。性暴力被害者を装って、嘘をつく人間もいる。
その相手に対して、「加害された」と訴えることは、とても難しかった。
嘘をついていることを検証するために、多大な時間が必要とされた。
普通なら、「嫌なことをされた」ということを書くだけで済むのだけど、「性暴力被害者が加害してきた」ということを書くだけのことに、「性暴力が実際にあったのか」「性暴力被害者が嘘をつく場合があるのか」ということを長い時間をかけて、検証する必要があった。簡単に、わたしの被害を訴えることができなかった。



二次被害は防がなくてはならない。しかし、二次被害を盾に、自分の不利益を黙らされるわけにもいかない。
コンフリクトだ。


わたしは、沈黙の強要はあらゆる形であってはならないと考えている。
それが、たとえ、性暴力被害者であっても、加害をしたら、その責任を免れることはできない。


ゴヒエツコ氏問題は、わたしだけの問題ではない。
今までの、そして、これからの性暴力被害者たちが、自分の被害を訴えることが難しくなる。
そして、何もしていない人であっても、被害を訴えられ、反論しようとしても、セカンドレイプだと言われると沈黙せざるを得なくなり、真実を明らかにできなくなった。


ゴヒエツコ氏は、社会の信頼を壊した。noiehoie氏の居場所や、言論の自由を奪った。

一人の人間の生活を破壊した。

その罪は重い。
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