c71の一日

生活の記録

男しか行けない場所に女が行ってきましたの途中まで読んだ感想

男しか行けない場所に女が行ってきました

男しか行けない場所に女が行ってきました

おもしろくて、おしくて、ちょっとずつ読んでいます。


前書きですでに泣きそうになった。こんなにもさらけ出した文章を人は書けるのだ…と思った。
結婚したい、しないと生きていけない女たちのはかなさについて書いてあるところでは落涙しそうになった。わたしの周りには、そういう女性が存在しなかったので、でも、わたしの心にいる女子がそうだそうだと言っていた。

田房さんの本をきっかけにして、彼氏と風俗について話し合った。
彼氏がおかあさんがAVに出てたらいやだ、と言っていた。
わたしは、まあ、それはいやかもしれないな、と思いつつ、「AVみたことがないなら、それは言っても許されるし、でも、AVみたことがあるなら、それは理屈上とおらないよ、どっちかだよ」と言った。


彼氏は
「この人の本は読みたい。男がつきあいとか興味があっていかなければわからない場所のガイドブックになると思う。こんなにも、風俗について書かれていて、ユーモアがあって面白い本はないと思う」と言っていて、ぱらぱらちょっとずつ読んで、前書きは読み終わったらしい。
わたしは感動して涙ぐんだけれど、彼氏は「ちょー面白い」と言って笑っていた。


…この温度差はなんだろうか。


彼氏は、風俗を行く方も、働く方も、あんまり道徳的に良くないと思っている。他の仕事もあるのに、それを選ぶのはエロい人なんじゃないかと言う。なんで選ぶのかわからない、っていう。貧乏でもしないひともいるんだから、って言う。

でも、貧乏ってすごくつらいから、わたしは風俗で働く人の気持ちがわかるような気がする。
何年働いてもお給料が上がらないとか、不安定な仕事しかできないとか、すごく絶望する。女の人はよっぽど恵まれていないと、安定した仕事に就けない。
だから、みんな結婚したがる。



わたしはエロい人って言葉の意味がよくわからない。
それに、仕事を選ぶのはお金のためで、お金が良いから、選んだと思う。わたしの場合はお金が稼げるから塾講師を選んだよ。

セックスが好きだからってひともいるだろうけど、好きなだけでは勤まらないハードな仕事だと思うのだよ。ていうか、セックス好きだから選ぶ人がどれだけいるんだろう?そんなにはいない気がする。体力的にも精神的にも大変だ。内蔵に指とか突っ込まれたり、全身運動するわけだから。
エロい人を演じる、こともあるだろうけれども。
それより、お金じゃないかなー。
セックス好きで、やってると思ってる人って多いのかもしれない、と思ったら、好きでやってる仕事でお金もらえていいじゃん、ってことになるのかなあ。セックス好きだから、風俗やるひともいるんだろうけど、わたしの感覚だとピンと来ない。むしろ、彼氏がどうしてそういう発想になったのかが知りたい。わたしは好きで塾講師しているけど、でも、なー。よくわかんないや。

わたしは教えるのが好きだけど、だからって、無給で教えたくないから、そういうことだと思う。



わたしは風俗に行くのは、独身でパートナーがいなければ良いんじゃないかと思うようになった。むかしは、女を買うなんて、良くない!と思っていたけれど、風俗では女を買うんじゃなくて、サービスを買うんだ、って教えてもらってからは、いいんじゃないかなあ、と思うようになった。


いいんじゃないか、とわたしが許可を出すまでもなくたくさんの方が働いたり、ご利用なさったりしているのですが…。


でも、彼氏が風俗大好きで通いまくっていたんだよ、てへ、みたいな人だったら、ちょっとやだなあ、と思うわたしもいるし、正直な気持ちが自分でもわからない。わたしは浮気が悪いことってのもぴんとこない。
そんなこと言って、彼氏が浮気したらどうするの、ってよく聞かれるんだけど、どう思うのか、よくわからない。そのときにならないとわからない。


彼氏はわたしの道徳心の欠如、というか、自由な考え方が危険だ、ってことを良く言う。良く言うんだけど、心配しながら、結局、わたしと付き合っているんだから、自由な考え方に親和性はもともと高いんだと思う。



わたしは、塾で頭脳を売り物にしているけれど、べつに脳みそは売っていない。
それと同じように、風俗嬢はサービスを売っているけれど、体は売っていないんじゃないか、というのが最近の私の考えだ。
風俗の仕組みと、塾の仕組みは似ている。
お客さんを店で紹介してくれて、働くと、店からバックをもらう、ってところと時間制なのと、夜働く仕事なのが似ている。

だいたいの仕事は風俗と似ている部分があるそうなのだけど、わたしは自分の仕事と近づけて考えるしかないから、風俗の仕事は塾の仕事と似ているなあと思う。


わたしは高校生のころから風俗に興味があった。


男の人を喜ばすところらしい、ということが知りたかった。性的な知識がなく、性行為をするところだ、ってことも知らなかったのだ。
風俗って何するところなのか知りたい、そういうと、男子は卑猥そうに笑った。


ちんこをたてて、それをなんとかする、ってのは、卑猥って言うよりも面白い。言っては悪いが滑稽だ。ちんこがたってる、って状態は人体の一部が変形しているってことで、脳も興奮していて、その人が興奮している、ってことだから、面白い。おもしろいと言って良くなかったら、興味深い。


その性欲を持っているひとが、愛しい人で、自分に対して向かっていたら、嬉しいし、そうじゃなかったら、悲しい。


その悲しさはラビリンス。
女の悲しさは迷宮入り。
そして、悲喜こもごものドラマが始まってしまう。


性欲が自分に向かってなかったら、の部分で、浮気でも、男に怒りが向かうし、風俗でも、風俗に行く男に怒りが向かう。でも男に対して怒ったら、ちんこを自分に対してたててくれることがより減るから、それが怖くて、当たり障りがないように、風俗や浮気相手に怒りがむくんだと思う。



性欲が自分に向かっていても、相手のことを好きじゃなかったり、気分じゃなかったら、迷惑なだけだ。


わたしは自分の性欲のことをとても愛している。
性欲の言うことはたいてい正しい。


親離れできたのも性欲のおかげだ。性欲は親離れさせるパワーがある。
それは親への反逆のパワーなのだ。

そして、新しい巣を作るパワーにもなる。


でも、そうじゃないのが、風俗。
風俗は悩ましい。



わたしはセックスをしたくて、死にそうに苦しくなったことがある。
毎日セックスのことを考えてた。


そのことを彼氏に話したら、「走れば良い」と言っていた。


そういうことで解決しないんだよ…。涙。


さみしかったり、一生このまま誰ともセックスしないで暮らすのかな、とか、褒められたり可愛いとか言われないのかなとか、そう思ったり、野蛮なまでのセックス欲≠性欲が高まり、どうにもならなかった。


でも、それが、いろいろと動く原動力になって、切羽詰まった感じで、恋人を捜すのに必死になり、神頼みまでする結果となったので、性欲を満たさなかったおかげで、動けたってのもある。
前の恋人に未練もあったり、引きずったけれど、性欲が満たされなかったおかげで、そんなことにかまわず、前向きに恋人を捜さないとどうしようもない、ってことになれたのかも、と少し思う。


性欲ってエネルギーの一種だから、使いどころが間違わなければ、良い風に使える。
そして、使いどころを間違えば、悪い風に使える。
もっていきどころがなければ窒息する。


今は、性欲も平穏だけど、また、性欲の波が来たら、たいへんだなーと思う。
できるだけ我慢はしたくないなーとも思う。



なんか、とりあえず、風俗を男同士のコミュニケーションの道具にする人は、ちょっと好きになれず、単にひとりで楽しんでほしいって、思う。

むしろあなたはなぜ朝六時からクッキーを焼かずにいられるのですか

わたしは朝三時に起きた。
理由は八時半に寝たからだ。


そして朝六時にクッキーを焼いた。友だちが焼いているという情報が入ったとたん、焼きたての香ばしいクッキーのことが頭の中を駆け巡り、作らざるを得なかったのだ。



彼氏は「不満があったら、言ってね?」と言った。
「ん?」と思ったら、ストレスがたまったからクッキーを焼いていると思ったのらしい。


朝ご飯足りなかったの?女の子って朝からクッキー作るの?という疑問でいっぱいになっている彼氏。

そうじゃない、わたしは朝からバターと砂糖を混ぜて、小麦粉こねたかったんだよ!


女の子は朝六時にクッキー焼くこともあるし、焼かないこともあるし、いろいろだよ!

昨日生徒さんに「先生はなぜお菓子作りをしないでいられるの?!」と聞かれた。
そのときは、わたしは「興味がないから」と言って笑った。


わたしはその報いを受けて今、バターを150グラム使ったのだ…。

エロい人?

ツイッターでhinaさんからリプライをもらって考えた。


彼氏は田房さんの本の題名を見て、「この人エロい人なの?」って聞いた。「この本エロい本なの?」後者の質問の意味はわかった。前者の質問の意味がわからなかった。

「え、どういうこと?」って聞くと、「なんで、風俗について調べようと思ったのかなあと思って」「いや、エロい人ってのがよくわからんのだけど」「うーん」

本人もよくわからないらしい。

c71ちゃんってそういう人なの?」
そういう人ってどういう人なのかと思ったら、エロいことが好きだから、風俗について調べたりするのかな、って思ったらしい。


いや…エロいことは好きだけど、わたしはエロい人じゃないし、エロいから風俗のことを知りたいわけじゃなくて、純粋に好奇心があるからだよ…。好奇心があるのはそんなにへんかい?街にいろいろあるの見てて、自分には一切関係がないのに関係ある、あの世界のことを普通にニュートラルに知りたいってのは普通のことでしょ…。

風俗のことを知っても、ドキドキしたり興奮したり、こんなサービスをしてみたいとか思わないよ…。男の人にこんなエロいことをしたいとか、お客さんとりたいとかあまり思わないよ…。しかもお金もらわないでしないし…。しないし…。意味わからないよ。


わたしは卑猥ってこともよくわからない。にやにやセクハラしたり、下ねた話す男の表情は卑猥だと思うことが多いけれど、性行為自体が卑猥だとは思わない。


サービスしている人の方は、毎回のことだから、うわ、まじ、エロ!とか思いながらしているとは思えないですし…。
わたしは毎回教えながらうわ、まじわたし天才、とか思っていますけれど…。


知りたいってのは、強い欲求だから、なぜ、今まで、風俗の現場の取材を女性がしなかったのか、って思うくらいだ。
エロとか、エロじゃないとか、そういうことじゃない。わたしは知りたいんだ。


大人になって、セックスがこんなにも大事なことだとは知らなかった。やって、はい、終わり、ってわけにいかないのね?パートナーは人生にとっても重要な存在で、関係性も愛もメンテナンスが必要で、メンテナンスの一環としてのセックスがあったり、しなかったり、しないなら、しないなりに考えてないといけないのね。


黙って考えないなんて、わたしにはあり得ない。


hinaさんによると、エロい人がセックスワークをしている、とメディアが紹介している、ってのも「エロい人が働いているのイメージを作っている原因だそうだ。それが、エロい、ってのがよくわかんないままでも、素直にそうなのかーと思う人には、説明になるんだな。

hinaさん説だと、お金のために、セックスワーカーが働くってのは、タブーで、性風俗を利用している自分への嫌悪感があるからだ、ということらしい。
お金のために、寝てくれる人と、愛を育むのって悪くないと思うんだけどなあ。
わたしは塾で教えていて、お金の関係だけど、生徒さんに愛情はある。愛情があるし、ないときもある。いつも愛したいと思って接客している。その人のためになることを考えるし、それで、なおかつもうかれば良いなと思って働いている。


まあ、わたしが思うだけだとなんの解決にもならないのだけど。



セックスワークが、もっと公に認められて、普通のことになれば良いのになあと思う。
そうしたら、お金が介在しても愛情みたいなものがあるって、信じられるようになるし、後ろめたさもなくなるし、風俗に行くことが浮気だってことがはっきりするし(浮気が良いことか悪いことかわからないけど)、人間相手だってことが普及したら良いと思う。

コスパを気にする人は結局損をする

わたしは業界の中でもけっこう良い時給をもらっている気がします。


それは良かったなあと思います。もし、700円だったら、700円なりの仕事を覚えただろうけど、今は今の時給に見合った仕事を覚えられたからです。



前は、塾の生徒さんを教えれば良い、と思っていたのだけど、今は塾の売り上げも上げたいと思うようになりました。
                                             
それは、生徒さんの利害を侵害するものじゃなくて、生徒さんの役に立ちたい気持ちと、わたしがもうけることは矛盾しないって話です。
わたしが働くことによって、生徒さんの成績が上がるってことは同じことなのです。

コスパ気にされると、成績上げづらくなります。わたしも生徒さんも萎縮しまうからです。


コスパ気にされると、結局損するのは、お金出した方だなーと思います。

なんつうか、お金の範囲からはみ出したサービスをしたい、って気持ちはあるんだけど、無理矢理だせ、って責められると、出したくなくなるっていうか、出せなくなります。



だから、コスパを気にする人ほど、最低限の形通りのサービスを受けられなくなるんじゃないかなあと思います。気持ちのこもったサービスって、気持ちを込めたいお客さんにしかしたくないもんね。
わたしの場合は月単位で関係性を築くから、だいたいは仲良くなれるけれど。

好きの反対は無関心ではなく、嫌い

嫌いな人がいます。

嫌いな人のことが気になります。ああ、いやだいやだ、と思いながら気になります。


好きの反対は無関心、って言うけれど、わたしはどう考えても、無関心にはなれない。嫌いなもんは嫌いだ。



だけど、同時に嫌いなものに対して時間を使うのもいやだなーと思います。


かといって、無理に、「嫌いなのはやめよう、気にしないようにしよう」と思っても難しいです。


だから、嫌いだ!むかつく!憎い!と思い出し怒りが湧いて来たときには、嫌いだなあ、ああ、嫌い、嫌いなんだなあ、と思うだけにしたいと思います。

ここが嫌い、ここが気に入らない、と具体的に考えたり、正当化しようとすると無駄なエネルギーがかかるので、ただただ、生理的に嫌いなのだ、という気持ちを大事にしたいと思います。


反射的に嫌い、不愉快、って思うのは仕方がないです。
他の人にまだ引きずっているのか、って言われるのも、そうですね、って感じだけど、わたしはわたしのペースで気に入らないし、腹が立つし、嫌いです。



優しくなんてできないし、無関心にもなりません。失礼なことをされたらいつまでも覚えていてしまいます。一回言われたいやな言葉がいつまでも頭に残ります。忘れよう忘れようとすればするほど忘れられなくなる仕組みです。


人間が育つとき、いやな思いとかつらい思いをしないで育つのは無理なんだと思います。



それを減らそうとするのはおかしいと思います。あえてつらい思いをする必要はないですが、それを避けるのも変な話です。避ければ避けるほど、大きな問題になると思います。避けずに、受け止めたほうが、結果がいい気がしています。



現実の世界では、嫌いな人との付き合い方で悩んでいる人はたくさんいるのに、ネットだと、見なければ良いと済ませられる人が多くて驚いています。本当は、きっとこっそり何度も見てるんじゃないかなあ、それはわたしだけなんだろうか?と疑問に思います。
他の人だって、本当は嫌いなものをずっとみてイライラしてるんじゃないの、そういう経験はきっとあるはずだ、と疑っています。


元気がないのに、怒りが湧くと元気な風になるときがあります。カフェインを飲む代わりに、わたしは腹が立つものをわざわざ探してしまうことがあります。それは無意識にすることもあります。それで、怒って、活発になって、自分を刺激して、目を覚まさせている、ということをしている気がします。


わたしが嫌いな人は、句読点の打ち方や、wwの使い方がいやな感じの人です。見た感じでぞうっとします。自意識がこう、立ち上ってくるようです。わたしは賢いのだ、そう思いなさい、と伝わってくるような句読点が嫌いです。そういう人はだいたい内容も気に入りません。
内容も、わたしに興味がある分野に近いことを書いている人で、なおかつ、主張が少しずつ違っている、と言う人に関してイライラます。

療育について

この前、わたしは、療育について、書きました。
発達障害は楽しいこともある… - c71の一日
このエントリです。
追記のところは、まだ怒っているので、あまり読みよくないです。できれば読み飛ばしてください。

しつこいと思われるかもしれませんが、もやもやしているので書きます。



このとき、わたしが言いたかったのは、療育は大事だけど、カリカリしたり負担になったりして、我慢してまでするものじゃない。療育は一生続けることができる。わたしは、療育をしてもらわなかったけれど、元気だし、楽しく暮らしている。二次障害は苦しいし、だから、昼間起きられないし、睡眠障害気分障害鬱状態もあるし、大変だけど、良いこともたくさんあるなあと思っている。苦しいことは避けられたら避けられたら良かったけれど、でも、苦しいことがあったおかげで、喜びがしみじみと感じられるし、いろいろな世間的な価値観から離れられて、好きではない競争をしなくて済むようになった。例えば、結婚すれば勝ち組だとか、高収入だったら勝ち組だとか、子どもを産んだら勝ち組だとか、そういう自分の価値観と合わないことをしなくてすむようになった。競争をしないから、自慢もしなくてすむし、自慢をしないから、人に恨まれなくて済む。人と価値観が違うせいで、幸せだ、と言ったことが自慢ととられて、恨まれることはあるけれど。


そう思って書きました。そういう意味ではあの記事は親切で書いたものだったのです。


定型の人には読み取りにくかったのかもしれないなあと反省しました。
発達の人には意味がそのまま伝わったのです。字句通りの意味で誤解するところがわからない、と話し合いました。でも、定型の人には伝わらない、って現実があります。
だから、そういうものかもしれません。


定型の人のわかるように翻訳すると、「子どもさんは幸せです。小さい頃から療育を受けられるので心配いりません。多少、親としてしてやれない、歯がゆい気持ちがあるかもしれませんが、まったく、療育を受けなかったわたしでも幸せになれたのだから、最初からわかって受け入れてくれる親御さんがいる、子どもさんが幸せにならないわけがないです。今は、他の子との発達の進度の差が気になるでしょうが、大人になればなるほど減ります。二次障害がなく大人になれることがうらやましいです」ってことです。
わたしにはこういう書き方ができないのです。これを書いたとき、つまり、今ですが、心から血のにじむような気持ちがしました。自分の自然な言葉と離れているからです。こう書けば伝わるってことにも驚くし、わたしの自然な言葉は定型の人から解離しているのだという事実もわたしの心を引き裂きます。
できれば、わたしにこんな書き方をさせないでほしいと思います。これはお願いです。
わたしは言葉通りの意味を込めて書きました。だから、嫌みとか皮肉とかはありませんでした。多くの場合皮肉のときは皮肉としてわかるように書きます。


わたしは人と目を合わせられないけど、別に困っていないです。合わせてもらえなくてさみしい、と思う人はいるかもしれないけれど、その人はその人の価値観を疑った方が良いんじゃないか、と思っています。それは、どうにもならない相手への要求だからです。目を合わせないことは、相手へなにも要求していません。だから、目を合わせないことの方が他者への影響は少ないのです。


わたしは自分が合わせなくても良いと思っています。合わせられる日も来るかもしれない。けれど、それはたいしたことじゃないです。目を合わせないことがその人の自然だったら、それを尊重してあげる方が大事だと思います。それを尊重してもらえる世界で育つことが大事だと思います。



わたしが、幸せか、どうか、が大事なんであって、わたしと目を合わせたい人は、さみしくても、それを我慢することが試練なんだと思います。わたしが、自分の障害が試練だ、ってことと同じように。それは対等な試練です。
障害のある人と向き合う人の試練だから、相手に、目を合わせるように要求するよりも、目を合わせない世界があるのだ、ってわかった方がその人のためになるんだと思います。



わたしには、子どもの頃から、療育を受けた、という人に嫉妬心があります。かっと燃え上がる心があります。わたしがしなくて良かった回り道をしないで済む人たちのことがうらやましいです。うらやましいなんてものじゃないです。



だけど、療育を受けることは人生を楽にすることが目的なのに、一生懸命、半年遅いとか、一年遅れているとか、発育を気にして、療育を必死にやることは、かえって、わたしがしたのと同じ苦しみを幼い自閉症スペクトラムの子どもが味わうんじゃないか、と思って心配です。


わたしが心配する義理はないのだろうし、大きなお世話だと思うのですが、ゆるゆるやったって、二十年、三十年後に、その差はわずかになるだろうに、と思っていました。実際、今存在するわたしからすると、一年、二年、四年だろうとなんだろうと、その差が大きいって騒ぐってことは、わたしの存在を否定されたような感じ(妄想かもしれないけど)、わたしが楽しく生きているって現実を信じられていない感じ、大人になってから療育を自分で調べてやっている大人の可能性を無視しているって、感じました。それが腹が立った原因のひとつじゃないかなあ、と思います。
療育は、大事だ、大人になってからもできる、って書いたことを矛盾だ、と言った人がいます。
それは、矛盾ではありません。
大人になってからも療育はできます。そうでなければ、わたしたちはどうしたら良いのですか?


わたしは、絶望の底にこれ以上いたくないのです。発達障害の人たちだけで暮らすことができない世界なので、定型というマジョリティに合わせなくてはなりません。そこには摩擦があります。外界との摩擦を選ばない、選べない、ということは、自分の内面を加工して、内面を摩擦して、引っ掻いて、引き裂いて、外界と円滑に接する必要があります。マジョリティの人が合わせてくれる可能性は乏しいのです。期待できません。


わたしがさっきの文章を書いてつらい気持ちになる、わかるように書くことで、自分との違いを感じて、つらくなる、みたいなことです。



わたしが、あの文章を書いて、それを読んで、「発達障害に理解のある人を、敵に回すなんて…」と言った人がいました。あの文章を読んで、誤読して(良く読めば、わたしが上記のことと同じ内容を違った表現で書いたことがわかるはずです。わかったひともいたからです)、敵になる人は、のぼせやすい人です。最初から味方ではない人です。味方だとしても、恐ろしすぎて、理解してほしいとは思えません。こういう言い方も、発達障害っぽいのかもしれませんね。理解されなくても、わたしたちは、わたしたちです。もう、存在しています。存在しているものに対して、味方がいようといまいと、関係がないのです。味方がいたら、生きるのが楽になるかというと、そんなに簡単な話じゃないし、敵に回すなんて、と言った人が味方だったとすると、ちっとも楽になる気がしません。わたしたちの自由度を狭める人だなあ、と感じました。

あと、わたしが共感性もある、と書いたところ「主さんは、共感性があると書いてあるが、肝心な親御さんに対する共感性は欠如していたんですね」と書いた人もいました。この人は定型かもしれませんが、優しくはないなあと思いました。わたしは伝わらなかったけれど、親切な気持ちであのエントリを書きました。でも、この人はわたしに近づいてみる努力をしないで、皮肉を書きました。だから、優しくないと判断しました。あと、肝心な親御さん、ってこともわかりません。わたしにとっては、その人は大切な人じゃないからです。わたしにとって、大切な人は、数人しかいません。だから、肝心、って言葉が良く理解できませんでした。



何かで敵に回る人は最初から敵です。
発達障害を知らない人でも、わたしに良くしてくれる人はたくさんいます。だから、発達障害関係者が味方になるとは限らないし、そうじゃない人がいつも敵だとは思っていません。
人間だから、相性もあると思っています。



発達障害の当事者とその親御さんは立場が違います。だから、味方とか敵とか理解者とか、簡単にはそういう関係になれません。なるとしたら、どちらかが歩み寄ったときですが、わたしの場合、発達障害の親御さんに、成人発達障害の当事者が、書いているブログを読んで、何かヒントになることがあれば良いなと思って書いています。それ以上の歩み寄りはできません。親御さんの方からも歩み寄っていただけたときに、対話が成り立つと思います。発達障害の親御さんは、ご自身が、成人発達障害じゃない場合は、マジョリティとしての生きやすさを甘受して来た人です。だから、もてなされることになれていると思います。一方、わたしはもてなすことができない障害です。関係性において、もてなすことができないのです。それこそ、療育を受けていないから、障害特性から、できないのです。できないと言ったらできないのです。



わたしは、できないことを要求されてつらかったのだと思います。
できないことと言うのは、定型の人が理解しやすい言葉で書くことです。
定型の人でも理解できる人はいるのだから、わたしはそれなりに歩み寄っていたと自分では、評価しています。


私の視点からいうと、療育をしている人が、その口で、同じ口で、わたしなりに精一杯書いた言葉を誤読したあげく、謝ったのにそれを一切無視され、怒った理由を説明を求めても、説明してもらえず、陰で悪口を言った、ということが、理解できずつらかったです。


療育を受けていないからこそ、わたしにはできないことがあります。定型の人に伝わりやすい表現を自然に選ぶ能力です。しかし、あのとき、わたしは、わたしができないことそのものを、散々なじられたと感じました。療育を受けていないから、わたしは定型の人に通じる話法を知らないのです。それをなじられてもどうしようもありません。
わたしは幸せだし、楽しく生きています。それと同時に、大人になってからも療育が必要だと思っていることは、矛盾していません。それは今書いたことが起きやすいからです。


謝ったのに、謝った言い方について、ひどい、という人もいました。わたしは、少ない情報で、いやだと言われたことについて謝ったつもりです。あくまで、わたしの視点です。あれから、ずっと考えて、わたしの気持ちはこうだな、と思いました。もちろん、わたしの見方が正しいとは思っていません。でも、わたしはそう思いました。


何が起きたのか、最初よくわかりませんでした。わからないなりに頭に血が上りました。だから、怒ったし、あまり良い感じではなかったです。でも、そうするしかなかったです。もちろん、相手の人には、違う視点があることと思います。でも、わたしには私の視点でしか物事が理解できません。



そういうわけでした。