c71の一日

生活の記録

支援者について

支援者について思った。
普段わたしは、プロの支援者、つまり、ヘルパーさんに囲まれているので、あまり思わないのだけれど、
「これから支援する仕事につくので、当事者の声が聞きたい」という人に文学フリマであったのでそのことについて書きます。

悪口じゃなくて、なんていうの…、支援者と当事者って、微妙な関係があるのですね。
それについて説明したいと思う。エール、のようなものです。
今回は、わたしが「支援者」です。支援者になりたい人を支援する人の立場で、支援者になりたい人が、支援者になりたい人という「当事者」という気持ちで、このエントリを見たら、自分が当事者になったときの気持ちがわかると思う。

支援者になりたい、と言ってくれた、若いあなたを傷つける目的で書くわけでも、わたしが傷ついた、ということを言いたいから書くわけでもないです。
ただ、支援者と当事者の難しい関係を、説明したくて書きます。


わたしは親切でこのエントリを書きますが、親切はときにして、人を傷つける、ということがわかってもらえると思います。

「救う」対「救われる」になると、権力関係が発生してしまう。
そして、「対話」っていうのがくせ者になってしまう。



当事者にもいろいろいて、わたしはこうやって文章を書いているからさぞかし自閉症スペクトラムだということにいろいろ思っているだろうと言われそうだが、自分で自閉症スペクトラムについて勉強中なことを生かして、誰かに便利であったら良いという気持ちが主なので、実際にはそんなに傷ついたりショックだったりすることはない。



人と同じことが大事だと思っていたら、告知が非常にショックだろうというのは最近気がついたが、わたしにはそもそもそういう価値観はなかったから、人と違う理由が明確になったという感想がほとんどだった。
人によっては、烙印を押されたように感じたり、免罪符のように感じたりすることがわかるようになった。
集団セラピーに出たら、年金をもらうか、バイトをするかで激しく悩んでいる人がいたので、年金をもらうと、そっちに頭がいってしまう、と主治医が心配していたことがわかった。
わたしはお金があればどっちでも良いと思うけど。



そういうわけで、当事者と言っても困り具合も温度差も他人への関心もいろいろだし、関心があっても関わり方もさらに温度が違うのだった。
わたしは文章で役に立てたら良いなと漠然と思っているからそうしている。



わたしは比較的高い知能を持ち、支援者よりも、能力が高い場合がある。だから、かわいそうがられると、確かに大変な部分もあるが恵まれているからかわいそうではないし、それに、そもそもたとえ、わたしがすべての能力で劣っていたとしてもかわいそうではない、と思う。
わたしが自分よりも能力が低い人を見ても手伝おうと思いこそすれ、かわいそうだとはあまり思わないからだ。ときどき、かわいそうだな、と思うこともある。そして、かわいそうだという気持ちは親切に結びつきさえすれば、悪いものではない。



ただ、テンション高く、本人に向けて、「助けたい」という気持ちを発露されると、向けられた方としては、戸惑うのだった。
その人が善意だと言うことがわかるから、傷つけたくないと思う。



支援者は、当事者に傷つけられることが多いと思うが、それは、この気持ちの関係が発端になっている例もいくらかあるのではないか。


かわいそうだから、助けたい、とキラキラされると「え?なんで?」みたいになり、「ああ、でもこの人、悪い人じゃないから我慢しよう」となり、「でもやっぱ我慢できないかも」という流れになりがちじゃないのかと。



何かを背負った人を見ると、難しい気持ちになる。だけど、その難しい気持ちを本人に見せてしまうかはまた別の話だ。


わたしの場合「ここちょっと手伝ってもらうのが助かる」というときに「じゃあ抜本的にここからすべて変えましょう」と言われると困ってしまう。伝えたこと以上に対応されたり、こちらに変化を促されたりすることって難しい。




支援者、になりたくなかったけど、家族にいるから、しかたがなく支援者にならざるを得なく、よく考える時間もないから、とりあえず、助ける、って方向になるだけでなくて、スピリチュアル的になってしまうというか、試練だと思わないと、やってられない人もいるだろうから、あまり強くは言えないけれど。





人を助けたい、という気持ちは綺麗で素晴らしいのだけれど、人を助けたい、の、「人」になってしまった側からすると、その強烈な気持ちを直接ぶつけられると、現実以上に、「ああ世間ではこう見られるのか」ということがよくわかってしまって、障害そのものよりもしんどい、ということがある。



文学フリマで一番嬉しかったのは、うちの娘も生きづらくて、発達障害じゃないんだけど、でも日本の社会にいたらだめで、外国に移住したら外に出られるようになったからよかったんだ、と話しかけてくれたおじさまが、「他人事じゃないから」と言ってくれたことだった。



自分の人生にあった出来事とひきつけて考えて、自分にとって、役に立つことがある、と思ってくれることが嬉しいのだった。




支援者、の人といると、プロの人だと、「自分も役に立つな」という気持ちにさせてもらったりとか、今日は少しできることが多かった」と思わさせてもらったりすることがある。
アマチュアの人だと「ああ、これもできなかった」という気持ちになる。「だから、わたしはダメなんだ」と。


アマチュアの人は矢継ぎ早にたくさんのことを指示して、教えてくれ、いろいろやってくれて、動きが速い。プロの人はあわせてくれる。それが、お金を払って来てもらっているか、そうじゃないかの違い、契約の有る無しの違いだ。




セラピーでもなんでも支援でもそうなのだけど、「相手の人生にどこまで踏み込むか」というのは、お互いの合意と信頼の上に成り立つべきで、アマチュアはそこが曖昧だと思う。



わたしは、「当事者」になる前から、愚図でとろかったので、人生にずかずか入り込まれる回数が多く、削られることが多かった。
そして、「当事者」になってから「プロ」に接することが増えて、自分の境界を大事にしてもらうことは心地よいことなのだ、と知った。
それが支援、のあるべき姿だと思う。




人の役に立ちたいという動機だけだと、「当事者」から感謝されないとき、ありがとうと言われないとき、それを飲み込めたとしてもやはり、不満のようなもの、削れるものが出てしまうのではないかと思う。
当事者からしてみると、「支援者に付き合ってあげて話を合わせる」側面がどうしても出る。
わたしは、救われない。
人から短時間接してもらったからと言って、劇的には変わらないし、救われない。


それは、前提なのだけど、「支援者」はどうしても「ドラマ」を求めてしまう瞬間がある。
そして、悪ければその持て余した気持ちを、目の前にいる人にぶつけてしまう。



支援者、は救われないわたしを見て、がっかりする場合がある。
だから、わたしはそこで演技をしてしまう。
その演技は何の役にも立たない。



誰かを救いたい、役に立ちたい、人生を改善したい、という熱意は、ときどき、人を削ってしまう。



それよりも、契約上のやり取りの中で、お金をモチベーションにして、質の良い「助け」を出せる支援者と当事者の関係が良いのではないかと思った。



「普通の人」からしてみると、「当事者」から要求されているものが多すぎるように感じて、反発する人も多いと思う。不満に思ったり、重たいと思ったり、することがあると思う。
その気持ちはよくわかる。罪悪感を刺激されてしまうのもわかる。




以前、「当事者のおかあさん」とトラブルになったのは「支援者」と「当事者」の立場が違いすぎて対立した、ということだと理解している。
この場合、「支援者」にはお金、というリターンが何もないなかで、ひとりで頑張らないといけないから、そこに、わたしという「当事者」が水を差した、という形になっていたんじゃないか、と今は思っている。


だから、「(こんなに工夫しているのに)後ろから刺された」という反応が出たのではないか。
(わたしは他人だからその人がどれだけ頑張っているかは関係がないし、支援では、その支援が適切かどうかが大事であって、頑張っているかどうかは指針にはならない。延々悪口を言われたのも情緒的な問題だったことを示唆している)




発達障害に関わる人、という意味では同じグループなのだが、「支援者(自分が当事者であっても)
」「当事者」というくくりではまったく立場が変わってしまう。
わたしは当事者を名乗っているが、すべての人を代表できるわけじゃないし、症状も体調によってだいぶ違うし、他の人と比べてどうか、というのも、未だにわからない。





発達障害に関わる人であっても、自分が当事者であっても「親」になったとたん「契約なしの支援者」にならないといけない。
それが、問題を難しくしていて、同じグループに属しているように見えるのに相容れない。






「支援者」が「当事者」の選択の間違いを許さず、だから、「こういっていたのに」「こうしたらよかったのに」と言いがちになるのは、それだけ、プレッシャーが大きいからで、相手の人生をしょわなくてはならないと思わざるを得ない状況にいるからだろう。だけど、それは「当事者」の自主性を奪ってしまう。「主体性」を奪い、人生を生きる喜びを失わせる結果となってしまう。無気力や、工夫をする活力を奪ってしまう。



だから、支援者、というのはとても難しい。
良い人であるだけではダメだ。良い人が「助言」をして「主体性」を奪っていくことなんて推挙のいとまがない。
良い人かどうか、すごい人かどうかじゃなくて、「契約」のことを果たす人かどうか、が大事なのだと思う。



ただ、契約にないことをしてはいけないか、というとそうじゃなくて、娘さんのことを話してくれた男性のように「共感」「寄り添い」「自分のみに置き換える」「他人事じゃないと言う」ことなどを言ってくれる人と出会うと、本当に心が暖かくなる。

でも、彼はわたしに感謝を求めていなかっただろうし、自分が欲しいから本を買ってくれたのだと思う。そのことがわたしを嬉しくする。



「当事者」に「支援者」以外の立ち位置でどうか変われば良いのかわからない、人はたくさんいる。



弱い人を見たときや難しい気持ちになる立場の人を見たとき、本当は、「支援」以外にできることは、たくさんある。


だけど、そんなことをいわれてもクイズを出されているような気がする、という人もいるかと思う。



そういうときには、このことを思い出してほしい。
弱い人は、いつも弱いわけじゃない。弱い状況になったとき、どうすれば良いのかを良く知っているという意味では強い。

弱い人は、弱さについてのノウハウをたくさん蓄積している。
弱さに対する経験では、弱い人の方が優れている。
誰もがいつかは、弱くなる。事故にあったり老化したり病気になったり、周囲の人が要介護になったりする。そういうときに、役に立つのは弱い人のノウハウだ。
そのとき、力関係は変化するだろう。



最初、力関係から入った人は、力関係で終わってしまう。
だけど、未来の自分や過去の自分を含めて人と関われば、相手を弱いから助けないとと思わず、自分もいつか世話になることもあるかもしれない、と思って、関われる。そういう可能性がある。


わたしは、今回、支援者のつもりで、この文章を書いた。
とても難しいと思った。
たまには、立場を変えてみることも大事だなと思った。


でも、わたしは彼女を、かわいそうだと思ったり助けたいと思ったり、していない。
(自然な同情は歓迎します)


でも、わたしはときどき、かわいそうだとか、助けたいとか、思われる立場だ。

支援者は「助けたい」「救いたい」「変えたい」という気持ちが多すぎると苦労する。
当事者も支援者も、欲しいものが得られなくてつらい思いをするので、それを断ち切るような気持ちでいた方が良いと思う。

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