c71の一日

生活の記録

蕎麦は打たないで済むように生きたい

友達と話したのだけど、「高校生の時までで人生はほとんど決まる」って話をした。
何が決まるかというと「やりたい仕事をする」ために動けるのは、高校生の時だ。
作業療法士や、薬剤師になりたかったら、高校生の時に勉強して、専門の学科に入るしかない。
そういうことを考えなくて、大学にに入ってからやりたいことを探しても、結局、周りの環境に流されて、仕事を選んで、仕事の中でやりたいことを探すって話になる。


それは、どちらがいいという話じゃなくて、ただ、高校生の時に気づくか気づかないかで人生は大きく違うなということ。

わたしはお金のことについて、ほとんど知らなかったから、茫洋と大学を選んだ。



今は転職もうまくいっていて、塾の仕事で感謝されることは面白い。きついこともたくさんあるけれど、説明がうまくいったとき、生徒がわかった、という顔をするのはとてもうれしい。


わたしの困ったことは、だんだん減りつつある。次の段階に進みつつある。
私の困り感は、実際にわたしと接する人としかわからないだろう。


できることもあるが、できないこともある。能力がちぐはぐだ。できることで、できないことを補っている。わたしができないことを誰かに裁かれたくない。できることがあるからといって、できないことを否定されるのもつらい。工夫しているから、できることが多い。それは、わたしの困り感が少ないことにならない。


友達が、なんとなく続けている仕事だ、というように言ったけれど、でも、毎日、自分なりに仕事のことを考えていたら、蕎麦打ちたくならないよ、と言った。
男の人は、退職金をつぎ込んで、蕎麦打ちの商売を始める確率が高い。
それは、毎日仕事のこと、仕事が自分の人生にどういう意味を持つか考えて、少しずつ調整する機会がなかったからじゃないかと思った。
女の人は、転機が勝手にやってきて、自分の人生と仕事の距離をいつも計りながら働いているように思う。


お金を稼いで、生活すること。自己実現すること。そういうのは、最初からは手に入らないんだなと思った。
「やりたいことと違っていた」という言葉を聞くと、「でたあ」と思うような年になった。
大まかに嫌いじゃない仕事をして、親切な上司がいて、仕事の中でやりたいことを見つけていく、という感覚になった。穏やかな職場環境でだと、やりたいことや自己実現は見つかりやすい。そういう気がする。
そういう感覚だと、蕎麦を打ちたくはならない。せいぜいうどんをこねるとか、パンを焼くぐらいだ。


蕎麦に何にも関係がなかった人が、突然、蕎麦に打ち込むのはバランスが悪い気がしてしまう。
蕎麦には何も悪い気持ちはないのだけど、蕎麦ってなんだか、打ち込むもので、退職金をはたいて店も出しちゃう感じもして、そういうのはとても怖い。
衝動やバランスが一気に壊れている感じがする。
壊れないように適度にふざけていたほうがいいんじゃないかなと思う。蕎麦屋の道も大変だ。



わたしはできることもあるし、できないこともある。できないことは手伝ってもらう。
それは、わたしの中で完結していることだ。
他人に興味を持つ人のことはわからないままでいい気がしてきた。
仕事はできる。からだはしんどい。しんどいと、できないことが増える。


でも、なるべく、毎日ちょっとしたいいことやちょっとした悪いことで一喜一憂しながら暮らす生活に満足している。
以前には満足という感覚がなかったから、それは良いことだ。
わたしも少しずつ成長している。