c71の一日

生活の記録

結婚についてぼんやり思うこと

今は忙しい時期で、ハードに働いている。五週間のうち、休みは、二日だけだ。


それでも、夜は暇なのでぼんやりする時間がある。
寂しいなとかつまんないなと思う。


だからといって、人の世話をしたいわけじゃないんだけど、話し相手がほしいなと思う。


今はいいけど、老後は寂しい気がして、友達に、老後もしも独り身でいたら、近くに住もうと誘っている。
そのためには貯金だと気が付いて、今年は、貯金をしたい。


翻訳『結婚は私たちを決して自由にはしない』(ディーン・スペード、クレイグ・ウィルス)
ja.gimmeaqueereye.org


わたしは、今まで結婚について憧れをそれほど持っていなかったのだけど、いくらか、不安になる。
これからも、一人で生きていけるだろうか、とか、さみしくなったらどうしようとか。


寂しくなったらどうしようにいたっては、「どうしようもない、がまんするしかない」とわかっているのだけど。


結婚をするかしないか、というのは、個人の選択じゃない。社会的な構造によるもので、自分自身が選べることはあまりない。


結婚によって、名前が変わったり引っ越したりして仕事を失うリスクを考えると、結婚という制度に入ることが良い選択かどうかと迷える自分の境遇は恵まれているのだろう。


仕事をしていたら、ご飯を一日三回食べていたら、心境がどうであれ生きていけるというのは、最近の大いなる発見であった。


人のまねをしたいという欲望が時々わくので、ぼんやり考える。


人並みになりたいという欲が、わたしにもあるんだなと思う。


結婚は国家によって管理されることを受け入れることだ。
生きているだけですでに管理されているのだけれど、そのことをいかにコントロールしていくか、対峙していくかは考えていきたい。
国家は、ひとを生かすために存在しているのであって、国家を生かすためにひとが犠牲になってはならない。



結婚しても、もちろん、離別したり死別したりすることは誰もが知っているのだ。
わたしは誰かの子供だったが、今は、誰の子供ではない。
だから、誰かが、わたしを老後のあてにしても、わたしはそのあてにならない。
したがって、わたしがいつか子どもを持ったとしても持たないとしても、それは寂しさの解消の担保とならない。
それは思い込みなのだ。


確かなのは、わたしが生きていかないといけないこと、生きていくのには、必要なことは特に何もないこと……、仕事もお金よりも、ただ、寂しさと向き合うその心持を持っているかどうかなのだ。