c71の一日

生活の記録

「良い娘」だった時代から去ること

思い出し怒りも思い出し悲しみもつらいもので、過去は変えられないと言われても、なかなか承服しがたい。


では、どうすればいいのか。


思い出し怒りをしていると苦しくて、生活に支障が出る。
そのすべてを捨ててしまうのが、わたしにとってはよかった。


なかなか何もかも捨てることは難しいと思うけれど、わたしは「あのひとたち」に捨てられたのだったから、簡単だった。
思い出の品もほとんど失った。



わたしは、いろいろな助言をしてくれる人々から去ったのだ。
いろいろな助言をする人たちは、いろいろなことを言っても、わたしがまだ去らないと思っていたのだと思う。
不機嫌そうにしても、泣いても、わたしはいつも機嫌をうかがって助言する人たちのために右往左往していたから。



いろいろな助言をする人々は、わたしに思い出させた。


あのときこうだった、あんなにめんどうみたのに、もっとこうすればいい、など言われるたびにわたしは混乱した。



助言をされると思い出す。
助言自体もだいたい知っていることだ。
知っているけどできないのだ。



助言されない環境になってから、わたしはどんどん楽になった。
生きやすくなった。わたしにも割合と知恵はあるものと思われた。


失敗しても人に言わなければ、がっかりされることも、「わたしはわかってた」と言われることもない。


PTSDを罹患している場合、リマインダーになるものを排除するのが大事なのだという。「善意」の人々はたいていリマインダーだ。わたしに思い出させる。そして、できないことをさせようとする。できること、したいことを制限しようとする。



つらいことを言う人ほどありがたいのだと、もっともらしいことも言われたけれど、何年か生活してみて、つらいことを言う人を排除することこそ大事なのだと思った。


つらいことを言われると、それに対処するエネルギーを取られて、現実に対処するパワーがなくなってしまう。
善意の人に対処するのにいっぱいいっぱいになって、実際に怒っている問題に手が回らなくなるという本末転倒が起きるのだ。


わたしはそういう人たちと離れるのが怖かった。「あなたにはなにもできない」とメッセージを受けていた気がした。
それは気のせいだと思い込んで適応しようとしていたけど、その人たちに適応することはあまり大事ではなく、現実の「仕事」だとか「困ったこと」だとかに適応したほうがいいみたいだ。そして、現実のほうは淡々とこなすしかないので、精神的ダメージは、少ないのだった。


「良い娘」でいようとすることは、その渦中にいる時にはわからなかったけれど、とても大変なことだった。
庇護を失ったら恐ろしいことになると脅すようなメッセージをいつも感じていた。
だから、わたしは何もわからない、ダメな人間だから、できるだけ、その人たちの言うとおりにしようとしていた。


でも、実際には、わたしにはいろいろなことができるし、できないことも把握しているので、庇護がなくても困らないのだった。
庇護がない状態だと、「良い娘」になろうとしなくていいのだ。



犯罪に巻き込まれたとき、わたしをあの人たちは非難した。被害に遭って気の毒だと言われたことは記憶にない。
なんでそんな目に遭ったの、何か悪いことをしたんじゃない、わたしたちはそれに巻き込まれて迷惑だ、自立するために、自分がしたことを自覚して、その責任を取りなさい、というようなことを言われた。




わたしはあのときありていに言って死にかけた。死にかけている人に気の毒だったね、大変だったねというのは、近しい人には難しいらしい。
でも、そういうときに助けてくれないのだったら、近しい人の言うことを聞いている意味はあったんだろうかと最近思う。



わたしはあの人たちが困ったとき、きっと助けないだろう。わたしはもう「良い娘」じゃないから。
冷たい人間で、自分のことをやっていくから。



自分のことだけをやっていく人間は、真の幸せを感じられない、人のために尽くすことが、幸せなんだと言われた。
わたしはもう搾取されない。されたくない。


真の幸せが手に入らなくていい。
今の幸せがあればいい。