c71の一日

生活の記録

キレイは汚い、汚いはキレイ

汚い言葉を使ったり、荒い言葉で文章を書いたせいで、様々な人が離れていった。
また、右翼である菅野氏について書き、性暴力被害者を名乗るゴヒエツコ氏を攻撃したことによって、やはり、人が離れていった。


しかし、わたしは、わたしのために戦ったので、人が離れるのは仕方がない。
離れた人たちは、わたしの名誉や、わたしの被害については見て見ぬふりをしたいのだろう。
わたしの訴える被害については興味がなく、ただ、きれいな言葉や美しい言葉を聞いていたかったのだろう。


政治信条が違っていても、人権は守らなくてはならない。

わたしは、菅野氏の名誉を棄損した。だから、菅野氏の名誉を回復する責任があった。
また、わたし自身の名誉も回復し、精神的なダメージについても、自分自身でケアする必要があった。


形だけ見れば、わたしは、性暴力被害者を攻撃したことになるんだろう。
でも、調べると、彼女は性暴力被害者ではなかった。取材をして、調べた。事実関係を洗うと、彼女のいうことには、整合性がなかった。だから、彼女は、性暴力被害者ではなかったという結論を付けた。


週刊金曜日の中島氏は、菅野氏の論敵だ。中島氏のしたことは、発売前のゲラを配るということで、言論人としては、してはいけないことだった。
週刊金曜日はろくな取材もせず、裏どりもせず、ただ、購読数を増やすための記事を書いた。


それを調べる過程で、わたしは荒い言葉も使ったかもしれない。
でも、加害をされて、加害者に対して、こちらばかり、「丁寧な言葉」を要求されるのは、腹が立つ。


マジョリティならば、きれいな言葉ばかり使っていても、過ごせるだろう。
でも、わたしの戦いは、わたしのものだ。


傷ついているからと言って、怒っているからと言って、言ってはいけないことがあると、何人かに言われたけれど、その人と、わたしの考えは違う。その考えの違いで、人が離れるならばそれで結構だ。


わたしは、このブログを運営していくうえで、さまざまな人と出会った。悪口ばかり言って、粘着する人もいれば、非常によく読んでくれている人もいた。理解者もいる。いろいろだ。とにかく、分母が大きいので、人が離れることにも、近づいてくることにも慣れてしまった。



きれいな言葉ばかりをつかえる人は恵まれているだろう。
わたしは違う。戦うためには、わたしの持ち物をすべて使わないと殺されてしまう。心が死んでしまう。
だから、戦っている。わたしは自分の自由のために戦っている。


きれいな言葉を使って、それで済む世界は、汚いものを見ないで済む世界だ。その世界にいられるのはマジョリティだけだ。恵まれた人たちだけだ。攻撃されずに済む人だ。攻撃されても慰めてくれる人たちだけだ。


攻撃されたら、わたしは戦う。戦わなければ、部屋の片隅で泣いているばかりで、決して、回復しない。自分のために戦うことが、自分を生かすのだ。


わたしは真実を見たい。真実は汚い。汚い言葉を使って真実を書き記したい。きれいな言葉を使う人は、人に迎合する人だ。嫌われないように、保身をする人だ。保身が汚いとは言わないけれど、そこには優劣がない。