c71の一日

生活の記録

あなたとわたしの外の世界

昨日のエントリがたくさんリツイートされたので、どんな反応があったのか、執念深く調べてみました。

世間が狭いので、自分の思っていることが、他の人にどんな風に切り取られるのか、気になったためです。


わたしに好意的な意見を言ってくれるひともいて、そうでない人もたまにいました。
それは、広がりが、わたしに対して好意的な人から順に伝わっていったからだと思います。


批判的な意見は「うっ」となりながら読みました。
反射的な「う」です。日常的になったら、嫌だなー、と思いました。


この追記を削除しました。

最初に


虐待について話したら言われること…。

母と似てたら何がだめなのか。それは似てるだろう。
完璧な状態になってから口を開け、ってそれは、黙れと言っているのと同じだろう。
お前は加害者である母親と似ている、同じだ、と言うのも黙らせたいからだろうと感じた。
それは、言っている側自身の問題として、「責められているように感じる」「今までの自分を否定されたように感じる」「助けを求められても困る」というものがあるように思う。

と思って書きました。

なんでかというと、わたしは批判は言われるし、それにも言い返すし、さらに言い返してきたら(疲れてなかったら、そして相手のことが好きだったら)応答するし、という世界が好ましいと思われるのです。


でも、批判は言ってもいいと思います、というと、なにさまだー、感じ悪い、と思ったので書かなかったのでした。わたしの許可はいらないです。



わたしが知っていることはとても少ないです。それは他の人も同じだと思います。
お互い、知っていることが少ない、小さな世界で判断していることを、当たり前のように思って「それがみんな思っていることだ」みたいに、新しいことみたいに、言います。


でも、そうじゃないです。


わたしが「う」となるのは、「わたしの外の世界」だったり、「わたしが捨ててきたはずの世界」だったりします。

いつも覗いていたら病気が重くなってしまうと思いますが、たまにはいいかもしれません。

だいたいは、良く咀嚼すると、あまり傷つくことはなくて(傷つくようなことはまだ言われていないのもあって)、なるほど、この人はこう受け取るのだ、と思います。


それは、わたしの文章の正確さが足りなかったり、その人の世界の中で読むと、そのようにつじつまが合うからなんだろうなーと思ったりします。



同じ体験をしたことがないとわからないけれど、全く同じ体験というのは原理上あり得ないので、人と人とがわかり合うのは難しいなと思います。


でも、似たような人と連帯すると、未来に向けて動けるので良い感じがします。
わたしはまだ力がないので、似たような人以外に訴求する文章をまだ書けないのだと思います。

しばらくは似たような人に向けて文章を書いて、ときどき、あなたの世界を知りたいと思います。
それは、わたしの世界を広げて、軽くするかもしれないからです。