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c71の一日

生活の記録

育てる当事者の立場と発達障害の当事者の立場の違いと、やなやつでも愛されるということ

なにかで敵に回るような人は、気を使い続けても、結局敵に回る気がする。

発達障害の親御さんだからと言って、他の当事者に優しいとは限らない。もちろん、優しい人もたくさんいる。わたしが何かできることもあると思う。
優しい人は、全然、そういう話を知らない人の中にもたくさんいて、わたしはそういう人に支えられている。
そういう人たちと行政に支えられている。


育てる立場と、自分が発達障害だ、ということとは立場が違う。

だから、衝突があるんだと思う。

わたしは、育てる立場のことはわからない。
育てる立場の人の中で一部敵に回してしまったらしいのだが、その人たちが「本来寄り添ってくれる人を敵に回すなんて」と言っていたけれど、そういう人が味方にいなくても、わたしは全く困らない。なにかで敵に回る人はもともと味方じゃない。


わたしは味方がいなかったら、自分で探すから大丈夫だ。何か起きて、敵に回るような人をわざわざ味方にするような手間ひまはかけたくない。そんなことしなくても、発達障害を知らない、優しい人はたくさんいるから、あまり困らない。

自分の家族が発達障害だからといって、発達障害に詳しいわけじゃないと思う。
わたしだって、当事者だけど、自分の症状にすら、よくわかっていない点はたくさんある。
わたしの外側で自分で起こしていることと、わたしの中で起きていることはいつも別れているから、それは体験でしか知ることができない。


発達障害、と一言に言っても、わたしのようないやなやつもいるし、良いやつもいるだろう。
ちなみに、わたしのいやなやつの部分や人としての欠陥は、障害のせいじゃなくて、もともとの性格のせいだと思っている。


いやなやつでも愛されるから大丈夫だ。心配しなくても、あなたも愛されてる。

わたしは自分がいやなやつ、ってことで安心している。
良い子になればなるほど、誰かに見てほしくなって、息苦しくなる。自分の姿に納得がいかなくて、自分に怒るようになる。愛してくれない他人に怒るようになる。良い子って、漠然とした基準だから、それを満たそうとすると、疲れ果ててしまって、そうするとやっぱり、良い子ではいられなくなる。
良い子になったのだから、愛してよ、という人も見るけれど、良い子だから、愛されないのだ、と思うときもある。
良い子は他人に厳しいから、一緒にいると罰せられるような迫力を感じるのだ。
息苦しい人は、周りの人を息苦しくする。息苦しさは悪いことでは全然ない。だけど、息苦しさは本人を窒息させる。だから、つらさを軽減した方が呼吸しやすくなる。

良い子でなくていい、良い子でいないといけないと思うのをやめよう。
正しいこと、楽しいことがあったら、楽しいことを選ぼう。

無条件の愛は、良い子の中にはない。


だから、わたしは悪いやつで良かった。


大人がいやなやつでも、子どもがいやなやつでも、魅力があれば、人は愛してくれる。むしろダメな部分を愛してくれる場合だってある。


失敗を恐れると萎縮する。周りを気にしても、仕方がない。将来を心配なんて悠長だ。明日死ぬとかいう病気じゃないんだから、楽しめば良いんだ。
なるようになるんだ。

わたしだって、将来を心配してたときにはなにもうまくいかなかった。失敗を恐れず、してもいいんだ、と思ってから、楽に生きられるようになった。

周りにどう思われるんだろう、っていうのは定型の発想だから、その発想のまま、子どもを心配していたら、それは、定型の子どもだって、しんどくなるような気がする。
少なくとも、わたしはそう思う。


わたしは子どもの頃、周りを観察して、場の状況を知りたがっていたけれど、どう思われるのかわかっていなかった。考えたこともなくて、状況が抜き差しならぬところまで言ってしまったのだけど、そういう周りにどう思われるか気にしない、ってのはある意味で、自閉症スペクトラムの良い部分だったと思う。


良い子であろうとする人は、それにエネルギーを使いすぎて、他のことができないくらい疲れている。
そういう人が多い。


だからそういう風なことが少しでも減って、みんなそこそこいやなやつでそこそこ悪い部分もある人間社会ができると良いなとちょっと思った。