c71の一日

生活の記録

境界、周縁化、クローゼットの中の性

女の言葉が周縁化されること、セックスワーカーと「普通の女」が分断されること、その中でもさらに女たちが、それぞれの属性によって、細分化され、分断されて、連帯を阻まれていくことについて書きます。


わたしは自分の怒りを直視できず、過食をしていました。
憎い相手が太っていたからです。そして自分の肉を死ねと言ってののしっていました。
加害者を憎めないから、自分を加害者の姿に似せて、その上で、自分に怒りをぶつけていたのでした。
加害者をそこまで怒ることができないのは、女は怒りをあらわにしてはいけない、という社会規範を内面化していたからでした。
怒ることを避けるために、自分と、加害者の境界線を溶かしました。
そうすることで、ひどいことをしたのは、このわたし、自分が自分にひどいことをして、そして、それが恥ずかしいから、さらに自分を罰したい、そんな気持ちだったのだと思います。



わたしはそんなにも怒ることができませんでした。
自分自身を傷つけることを選ぶほど、相手の加害について、怒ることができませんでした。
ゲシュタルトセラピーによって、自分の境界をはじめてひくことができ、少しずつ過食が収まりました。


加害者は、わたしを持ち物のように、女という形をしている、物体として、わたしを扱いました。
わたしは、それを拒絶したのですが、言葉は伝わりませんでした。
なぜならば、加害者にとって、わたしは、人間ではないからです。
少なくとも、わたしが人間のことを「傷つけてはいけないものだ」と理解するようには、人間として、扱いませんでした。


わたしが、言葉を発しても、それに、意味や価値があると加害者は理解しませんでした。
だからこそ、加害を行うことができ、その後自分がしたことが、加害だと理解すらできず、自分こそが本当に被害者だと、主張できたのでしょう。


わたしが過食をした理由は、悲しみは善、怒りは悪、という社会的要請に、心が濁るからです。特に女性は、怒りを表明することを、はしたないこと、ヒステリー、女は子宮でものを考えるなど、言われます。

だから、わたしは怒る代わりに、食べました。
わたしは、被害を受けて、怒って良かったのですが、自分の落ち度を責め、悲しむことはできても、相手に対して怒りを持つことができず、過食をしていました。



自分の境界が引けていなかったのです。相手に直接、怒りをぶつけることが必要なわけではありません。加害者に言葉が通じるなら、そもそも加害者は加害をしないでしょうし、フラッシュバックの原因にもなって危険なことです。


こうして、わたしたちは、心に何かを抱えたまま、クローゼットの中に潜って、秘密を持つのです。
誰にも話せない秘密を抱えて、他にもそういう人がいるのかもしれないと、思いもせず、被害にあったことや苦しんだことを、ひとりだけで抱えます。
恥の気持ちを持ちながら。そんな目に遭う自分が悪かったのだと、罪悪感を持ちながら。選択が誤っていたのだと、自分を責めながら。




性風俗の現状や、当事者の声が見えないのは、周縁化されているからです。
それは、友だちに教えてもらったからわかったことです。しかし、そう説明されても、この上記の一文がわたしにはなかなか理解できませんでした。



周縁化されている人は、属性によって、話せる言葉を、制限されているのです。
周縁化とは、本流から分断されることです。
特殊な、属性を背負わされることです。
その属性に、安易なストーリーを結びつけさせることです。
ときとして、属性を持つ当事者に何かを聞きたい人は、そのストーリーに沿った言葉だけを聞きたがります。



もしも、本当に、誰かが当事者の言葉を聞きたかったら、自分が聞きたいつもりの言葉をいったん捨てて、その属性の人は言えない言葉がある、ということを認識して、寄り添わなくてはなりません。



性風俗の問題の根底のひとつには、貧困があります。
だから、わたしは周縁化、という言葉を、理解するときに、セックスワーカーを特別扱いして、蚊帳の外に置いて、その上で見えないものとして扱うことだと理解しました。
そして、見えないことにする理由を自分の胸に問いたださないことだと。
娼婦と聖女に、女を分けて、娼婦のことをわからない、という。
本当には、聖女の気持ちもわからないのに、わけてしまう。聖女をよいもののように、許される、男ではないけれど、名誉男性として扱う(男性の望む女性像からはみ出さなければ)ことで、女をどんどん分割していくことが、周縁化の意味だと思いました。





セックスワーカーセックスワークをする、それを選択する理由を、セックスワーカーに求めてしまうこと。
特殊な女性が安易な道を選ぶというストーリーを作り、自分は無関係だとしてしまうこと。

セックスワーカーが、セックスワークさえ選ばなければ、「真っ当な人間」がそれを見なくて済み、考えるべき問題や「悪」がひとつ減ると考えること。


実際には、貧困がひとつの原因なのに、それは他の業界を選んだ人も同じなのに、そういう風には考えない人が多いのです。

特別、セックスワーカーだけに原因やファンタジー、調査者に都合の良いストーリーに沿った、「セックスワーカー」を求めること、それが、周縁化の一例です。



友だちから、娼婦と聖女(あるいは普通の女)にさしたる違いはなく、問題は同じであるのに、娼婦の枠に入れられた女は二度と、主張できない、という指摘をされました。



わたしは目を開かれた思いでした。



セックスワーカーにはできなくて、非セックスワーカーのわたしにはできること。
それは、「セックスワーカーと、わたしには、なんら、違いがない」ということそのものだったのです。


わたしは、ショックでした。


自分が権力構造の一端を担っていたことにもショックを受けました。
権力構造から抜け出すことができないことにも絶望しました。知らない間に、わたしは権力構造を利用して、ものを言っていた。そして、その見料構造の維持に加担していました。
ものを言えないセックスワーカーのことを、意識していませんでした。
そういうことが、セックスワーカーから主張できないようになっている、という構造の存在を知らなかったです。想像もしていなかったです。
それがショックでした。


わたしは、男性社会の権力構造の一部として、まんまと、機能していました。
わたしがものを言うことで、ことさら、セックスワーカーがものを言えない、というわけではありませんが、ものを言えるわたしは、その特権に気づいていませんでした。そして、その特権は、男性社会から「普通の女」に対して、与えられたものだったのです。



わたしは、文章を書きました。それは、セックスワーカーにできなくて、わたしにしか、できないことでした。


わたしは、セックスワーカーが、わたしの書くような文章を書けない、ということに気づけませんでした。
だから、なぜ、セックスワーカーが、「そのことについて」書かないのか、書けないのか、考えませんでした。
無自覚でした。
だから、わたしの文章には、セックスワーカーができないことをする、した、という意味で、価値がありました。

しかし、「普通の女」としての、その特権に無自覚だったため、権力構造の一端を担っていました。だから、わたしの言葉は、真には、男性社会に対しての批判にはならなかったのです。
男性社会が、「普通の女」に許す範囲での言説を行っていただけだから。
特別な権利を与えられて、喜んでいただけだったから。


だから、わたしはとても恥ずかしいです。



女の性は、換金されます。権力を持つものによって。権力を持つものは社会制度を作ることができますから、女たちを分断することもできます。
分断された女たちは、言葉を奪われます。立場によって、発して良い言葉と悪い言葉を峻別されるからです。
そして、特権的な立場にいる女には、そうでない女の立場のことを「考えなくて良い」というポジションを用意されているのです。
だから、考えないことで、直視しないことで、自分は少しましなのだと、奴隷の待遇自慢をするようになるのです。
そして、女は分断されて、周縁化し、同じように団結して語ることができません。




女の性は、クローゼットの中でさえ、語られません。
だから、本当は、さまざまな女が、女の数だけいるのに、権力者からは、ステレオタイプで、退屈な、女しか見えません。



愚かで、愚かさ故、新しい問題を作り、そして、罪に無自覚で、悪い道に入ってしまう女たち。
言うことを聞かないから、レールから外れる女たち。
自分を抑えて、怒りを抑えて、自分の輪郭さえあやふやにして、境界をなくすことで、心を奪われて壊れていく女たち。


理解しやすい形に加工された被害者だけが、被害者として名乗ることを許される。
理解しやすい形に加工された女だけが、女の苦しみや、快楽について語ることを許される。


分断に次ぐ分断が、ステレオタイプのバリエーションを、ひたすら量産していき、枠組みと枠組みを行き来できない、女たちは、誰にも言葉を発することができない。発することができたとしても、人に通じる言葉を編むことができない。分断されているから。見ている現実が違うから。
だから、同じ言葉を使っていても、その背後にある情景が違いすぎて、言葉がうまく通じなくなります。

本当に、話し合いたいのなら、友だちになって、相手の気持ちと背景を理解して、それからじゃないといけないのに、誰もがみんな忙しすぎます。




女は、自我の境界を崩され、周縁化され、クローゼットの中ですら、本当の自分を実感できません。
周縁化されている、という認識すら、持てないように、設計されているということを、わたしは考えたいです。
そして、それが、女たちの連帯を、言葉の共有を阻むことになっていることを理解しなくてはなりません。
そして、セックスワーカーのことを考えるとき、それは自ら、女としての自分が、社会から、周縁化され、どのように言葉や感情を奪われているのか、誰と誰とが分断されているのか、誰にとって、それが都合が良いことなのか、考えることにつながるのです。