c71の一日

生活の記録

「ペッパイちゃん」が挑発する女の分断

ペッパイちゃんとはロボットである。胸部のあたりを触ると、音を出したり動いたりするらしい。
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この記事の続きだが、ペッパイちゃんは女を分断している。
もっというと、ロマンティック・ラブ・イデオロギーによって、女を管理しようとする勢力と、「セクハラ」という言葉を使って、対抗する勢力とを分けている。





ロマンティック・ラブ・イデオロギーというのは、男による暴力を前提としたイデオロギーである。恐怖によって、「女を守る」状況を作り、その守られる対価として、「愛の労働(性行為、家事労働)」を差し出すことが、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの本質だ。
「セクハラ」とことあげする人々たちは、その範疇から飛び出している。
セクハラ(性的嫌がらせ、性的暴行)という言葉を使って、無料の簒奪行為に、異議を申し立てている。
歴史を振り返れば、「セクハラ」という言葉がフェミニズムのひとつの達成であることはいうまでもないが、男にとって、単なる「性的からかい」「楽しみ」「エロ」である行為について、「それは嫌がらせである」と言ってのける行為自体が、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに対する反逆だから。


「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」にとって、性的暴行を受けたもの、というのは「悪い女」である。「これから守るから」という大義名分を失った女だからだ。だから、性的暴行を受けた者は、「汚れたもの」として、「良い女」から分断する。
(予断だが、わたしが性的暴行を語ることで、語ること自体を非難される理由もここにあると考えている。本来隠すべきだ、とされているのは、「汚れた」女は「価値がない」からだ。)

だから、女たちは、性的暴行を受けたときに、それを認識すること自体を抑圧される。
さらに、性的暴行を受けた者が「セクハラだ」とことあげする行為は、さらにその者を「悪い女」とする。
性的暴行は、他の女に対する「庇護に入れ、さもなければ、暴行される」という警告であり、脅しである。不服従な女に対する警告である。
セクハラ、という言葉を使う女は、その警告を邪魔する者だ。だから、単に、性的暴行を受けた女よりもさらに「悪い女」となる。

(セクハラを語る女にある種の男が憤激するのはそのせいだろう。自分が守るべき、そして、当然手に入るべき、女が手に入れられない理由のひとつが、不服従な女の存在のせいだからである。
不服従な女が、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを攻撃しているからである。
自分が暴行をしていないのに、女を得られないこと、それ自体が、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに則れば、不満の原因になる。よく、殴るDQNはよくて、殴らぬオタクは選ばれない、という文章を見、わたしはその意味が理解できなかったが、暴力が実際にあり、それを庇護しようと待っている男がいるのに、その対価として女が差し出されないことを不満に思っているのだろう。

NOT ALL MEN というのもそれのひとつだ。ロマンティック・ラブ・イデオロギーに貢献しているので、自分が暴力を振るっていないこと自体に価値があると思う人たちだ。)

セクハラ、という言葉を使う女は、そう言う意味で、無意識にか意識的にか、性的嫌がらせ、という範疇に関しては、「男の庇護下」に入らないという宣言をしている。
セクハラという言葉は、性的暴行の目的を骨抜きにする言葉だ。


性的暴行をする者も、「女を守る者」もロマンティック・ラブ・イデオロギーを中心に据えて考えると、同じサイドに立っていることがわかる。家父長制の維持のために、「愛」を利用する動きだ。ロマンティック・ラブ・イデオロギーを維持するためには、「暴力」と「守る」という宣言の両輪が必要だ。暴力なくては、「守る」こともできないからだ。

ペッパイちゃんを作成した女性は「良い」女である。それは、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを維持するためのサイドに立っているからである。
セクハラ、という言葉から、「嫌がらせである」という被害者の価値判断を、「笑いによって」骨抜きにするからである。彼女(もしくは彼)の意思表示を無価値にし、無力にする。
笑いには、告発を無力にする効果がある。

ペッパイちゃんは、ロマンティック・ラブ・イデオロギーをなんら、邪魔しない。それどころか、ホモソーシャルの連帯を高め、被害者を笑い、加害者だけではなく、被害者だと名乗らない中立の者たちも男女問わず巻き込んで、一体となることができるからである。


ペッパイちゃんは、「セクハラ」という言葉を使って、自分の体験を表す者と、そうしない者を分け隔てる。
性暴力被害者たちが、自分自身の経験を語るときに、セカンドレイプに合うのは、それが、国家によって統率された社会に対して意義申し立てることだからである。それをされると、支配者側(仕組み上男性の性の人たち)は、自分自身が責められた気持ちになる。それはそうだ。国家は、男による暴力を前提として、秩序を組み立てているからである。男による暴力から女を守る、という名目でもって、女たちを支配しているからである。だから、女(システム上)が、男の暴力(たいていは)を非難するとき、男たちは自分自身が非難されたと感じるのである。



また、一度「汚れた悪い女」は、自分以外の「男」の持ち物になったという風に感じるだろう。「女」というリソースが支給されなかった男は「女を守ること」ができず、また「暴力を振るう」こともできなかったため、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの一員であるのに、その恩恵を得られなかった。そのため、国家の統率の一部という自負があるのに、その対価が得られなかったために怒りを感じると推測される。


だから、性暴力被害者は、二重の意味で踏みにじられることをたびたび言及するが、それも道理で、国家は女を管理するために暴力を用い、また、自分自身の価値判断によって、「嫌がらせである」と述べる行為自体を嫌うのである。

被害者たちの「語り」は、国家の統率に対して、邪魔だ。暴力と「守る」行為によって、女を支給し、男社会を安定させるという秩序を乱す「不純物」となるからだ。それは国家の根底をゆるがせにするほど危険である。
家父長制を前提として、国家が成り立っている以上、その仕組みを根底から攻撃するものは危険なのだ。
セクハラを訴えることは、家父長制の不備を訴えることであるし、また、守るべき者が「守らなかった」という告発にもなる。また、管理されるべきリソースである「女」が口をきくこと自体が、大事なのである。家父長制では、女とは、管理される財産の名前だ。

男性社会は、国家と一体である。(意思決定をはかる組織のどれだけに女性がいることだろう!人類の半分が女性であっても、そこには決して半数の割合で女性がいるわけではないことは誰もが知っている)




「ペッパイちゃん」は、もくろみ通り、「セクハラ」という深刻な言葉を脱力させ、笑いに変えた。
そうすることで、性暴力被害者の「言葉」を奪うことに成功した。
「ペッパイちゃん」は、女たちの分断、社会との分断をよりいっそう際立たせ、さらに引き裂いたと言えるだろう。


(いう人絶対現れるから書くけど、大きな仕組みのことを書くときには大きな主語にならざるを得ない。もっというと、「男」というのは、仕組み上の「男性」のことであり、「女」というのは仕組み上の女のことである。)


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