c71の一日

生活の記録

マジョリティじゃないにしても

わたしは、マジョリティの部分もあるが、マイノリティの部分もある。

デモを歩く能力がない。体力も精神力もない。

t.co


そもそも、これは、東京中心主義だから、地方の人のことを考えていないのではないか。
からだの弱い人や、精神面でうまく混ざれない人を取り除いて、
健康な、頑強な、性差別に対して鈍感な人しか、加われない運動なんて。

わたしはマジョリティじゃない部分がある。
マジョリティの人にも、マイノリティの部分がある。
割合によって、普段考えなくてすんだり、その言葉を持っていないから、意識しないですむだけだ。
「そこから降りた。それで良いんじゃないかと思います」なんて、言われたくない。
わたしは許可を必要としていない。良いんじゃないかとか言われたくない。わたしは、自分で決めたんだ。
許可を与える側の権力構造に、この人は無自覚で、わたしにとってはみっともない人だ。
この人はわたしになんの権力もないのに。
わたしは命令される立場じゃないから。

bcxxxさんはこのように言うけれど、これは、マイノリティを排除しているんじゃないか。
わたしの居場所は、マジョリティのものなのか。
社会は本当に、マジョリティによって、変革されるのだろうか?
マイノリティを排除したら、どうなるのか、わかっているのか?
誰だっていつかマイノリティになるのに。



わたしの今日のブログのユニークアクセスは一万を越えた。一日で。たいしたことじゃないのかもしれないけれど、一万人が、ブログを目にしたのだ。
それで、わたしのメッセージがいくらかの人に伝わったのなら、わたしは何もしていないわけじゃない。


わたしは確かに国会前には行けないけれど、わたしに出来ることがあると思っている。
問題提起や、考えたことや感じたことを、表すことだ。


それを人が読んで、影響を受けるのなら、わたしは何もしていないわけではないんじゃないか?
マジョリティではない人を排除した世の中は、マジョリティにとってもいきづらい。
マイノリティだって好きでマイノリティになったわけではないのと同じように、マジョリティでいられる人にも、いつか順番が来る。