c71の一日

生活の記録

職業の選択についての医者からのアドバイス

お金とか、体面とか、こうあらねばならないとか、正社員じゃないとだめとか、人に良く思われたいとか、こうしたほうがいいとか、考えないで、やりたいことを順番にやっていきなさい。そして、失敗したら、失敗しただけ、それ以上のことは考えずに、自分を否定されたという話でもなく、障害のせいでだめだったというわけでもなく、単に合わなかったという風に考えなさい。


あなたは、こうあらねば、という気持ちがとても強いので捨てなさい。幸せになれないから。


あなたは、理屈に強くて勉強が好きで、頭脳明晰だけれども、少し弱い部分がある。そのことを気にしすぎずに、思う存分やってみなさい。そのうちに身に付くから。

弱い部分というのは、人生の大事ではないことに、優先順位がつけられないこと。たとえば、自閉症スペクトラムじゃなくてもね、黄色い車が気になって仕方がなくて、運転中うんと疲れちゃうみたいな人を知っているんだけれど、あなたは人生に関係ないことにとても気がいってしまって、それで疲れてしまうの。
だから、そのことを忘れないで。
あなたはちゃんとできることがたくさんあるんだから。
うらやましいくらい。


入院先の病院では、安心しきっていたので、症状が思う存分出ていた。
娑婆のような環境では、症状は案外抑圧されているものなので、病院というフリーダムな場所でこそ症状が出やすかったりするのだ。

作業療法は楽しみで、二時間しかできないことが不満だったけれど、二時間したら疲れきって、ばてて一日眠っていた。そして、夜眠れなくなるのだった。
人と話すこともかなりの努力が必要で、座っていられないほど疲れたのだった。
完璧な美少女みたいな女の子や中学生くらいの女の子とおしゃべりしたり、作文の書き方を教えていた。


だから、退院後には短い時間で働ける仕事を探した。
ユニクロは、わたしに足りない、人生経験や、接客、人にもまれることが補えると思って応募した。でも、それは、業務に結びつかない熱意だったので落ちた。


そのあと、塾講師にした。時間の単価がよかったことと、勉強が得意だったこと、短い時間で働けること、などが良さそうだと思ったからだ。
仕事の量も調節できそうだったし。

このころは、自立することなどまだ先だと思っていたので、お金の面は二の次だった。ただ、社会と接点を持ち続けるために、仕事に就こうとしていた。
仕事に就かないと、暇すぎて、心が濁ってしまうと言われていた。
父が経済的援助をしてくれたけれど、自分の服や靴は自分で買いたいという負い目があった。


二番目の母は、とにかく子どもに関係する仕事に就かせいようと画策していたらしい。
だから、塾を選んだときは、ユニクロよりもいいんじゃない、と言っていた。
傷ついたわたしの心をいやすのは、大人ではない、と思っていたそうだ。
子ども相手なら、子どもはだましたり、嘘をついたり、してもしれているから、大人相手の仕事をして、苦しむよりはいいんじゃないかと思っていたらしい。だから、すぐの就業じゃなくて、子ども相手のボランティアなどを勧めてくれていた。


わたしは手紙までつけて、「子どもが大好きで、塾は世の中の役に立つとてもいい仕事です」と書いた。テストで落ちてしまったのに、テストを楽にして受け直させてくれた。


なんとか受かった。あのときは嬉しいというよりも呆然とした。
受かるときにはその場で、採用してくれるんだということを初めて知った。

やりたいことをやってみる、と失敗しないんだと思った。
雑念が少ないからなんだと思う。

今でも地位と名誉に憧れるけれど、これはあとから手に入れられるものなんだろうと思う。
わたしは恵まれている。