c71の一日

生活の記録

彼ら、とあなたが呼ぶときの醜さ、心臓

昨日、怒ったので、疲れて泣いています。


昨日からずっと寝ていました。
病院にも行きました。


一生懸命丁寧に説明してもわからない人にはわからないことがつらいなあと思いました。


わたしは、自分が自閉症スペクトラムなのか、本当にそうなのかわからないときがあります。
でも、疲れやすさだとか音や光に過敏なのは、なにか問題があって、お薬や病院が助けになるのは確かだと思います。


誰もまだ、自閉症スペクトラムについて、本当には知らないのです。
自分自身ですら、自閉症スペクトラムがどういうものなのか、探している最中です。


たくさんの人に出会っても、それでも、自閉症スペクトラムが何か、わからないままでしょう。
お医者さんでも、本当に、それがどうなのか、わからないと思います。

わたしの心のうちが、わたし自身にもわからないように、わたしを観察する人にも、わたしの心のうちはわからないことでしょう。

人の心の仕組みがすっかりわからない限り、少なくともわたしに関しては、自閉症スペクトラムがなんなのか、わからないことになります。わたしのどこからどこまでが、自閉症スペクトラムで、それとも定型らしいのか、そんな区別もまだつかないのですから。
本当に、すっかり、解明される日は遠いでしょう。


それでも、診断が役に立つのは、具体的な対策になるからです。


逆に言うと、具体的対策にならない偏見は毒になるばかりです。


自閉症スペクトラムの人には、共感性がないとか、田房さんがいっている「膜持ち」だとか、感情がないと言っている人がいて、困ります。

困ると言うのは、わたしがショックを受けて泣いてしまう、という意味です。



自閉症スペクトラムのわたしには感情がないのでしょうか。

泣いているわたしはなんなのでしょうか。この涙は偽物なのでしょうか。わたしは犬を飼っていて、病気で死ぬとき悲しみました。それは嘘の感情なのでしょうか。共感していなかったのでしょうか。それもなかったことになるのでしょうか。


同じ人間なのに、ひとつ障害を持っているだけで、感情がないとか、共感する能力がないとか言われないといけないのはなぜなのでしょうか。


わたしには確かに不得意なことがあります。でも、感情がないわけではありません。

ひとりの発達障害者を知ってるだけで、すべての発達障害者を知っているかのように、一般化するのはいけないことだと思います。それは知性を手放した行為です。


知性とは大胆さと慎重さが必要です。また、先日から話している問題は、犯罪と近い話をしているので、自閉症スペクトラムのひとが犯罪者になりやすい、と誤解を受けるような言い方をする人、感情がないのだ、痛みも感じないのだ、という言い方をする人がいるのはとてもつらいです。
「彼らは感情もなく、共感もないのだ。それはそれを示されたことがないからだ」

こんなとき、「彼ら」という言葉はひどく醜い言葉です。
障害を持っている「彼ら」という言い方をするとき、その言葉は人を差し貫きます。ああ、彼我とは違う、世界を生きているのだ、そう思われているのだ、同じ人間ではないのだ、という分断が、心を引き裂くのです。


わたしは共感されたこともわかります。共感することもあります。感情もあります。なぜ、こんなことをわざわざ言わなくてはいけないのかもわかりません。



わたしには雰囲気も読めます。ただ、雰囲気にあった仕草や表情や態度を示せないだけなのです。心の中では思っているのです。心の中で思っているだけだと、ないのも同然だとしたら、どうすればよいのですか。



あなたは、老い、病に倒れることもあるかもしれません。そんなとき、あなたは今までと心の中は同じでも、感情を適切に表せないかもしれません。そうしたら、もし、あなたが誠実さを少しでも兼ね備えていたら、その価値観で持ってあなたは、自分で差し出した言葉で自分を切り刻まなければなりません。分断し、予断した価値観でもって、裁いてきた自分自身を裁き直すでしょう。



わたしはあなたをあなたと呼びます。彼らとは呼ばないでしょう。


わたしはあなたの言葉で、彼ら、と呼ぶ人の醜さを知りました。
わたしはその醜さを受け入れようと思います。
醜くても、それは素晴らしいことなのだと思います。
美しいだけが世界ではないのだとわたしは知っているのです。
そう、それが今、わたしが向き合っている世界なのだと。
わたしはそのままの世界を知ります。

だからこそ、ここに宣言したいと思います。


わたしは彼ら、ではありません。


わたしはひとりです。

わたしはここに存在します。
わたしはここに心臓を差し出します。

同じ赤い血を流し、立っている、それがわたしです。