愛とうっとうしさとその間のもの
親はわたしのことを愛していてあれこれ言います。
わたしはそれがうっとうしくて、いやになります。
いやになることはとても健全なことだと思っています。いやがっているわたしを許してくれるのはとてもありがたいです。
親を愛し、好きでいて、尊敬していないといけない世界というのはうっとうしくてしかたがありません。
わたしが愛されていると思うのは、わたしが親をうっとうしく思っていることを許されているときです。
愛、というものが必ずうっとうしい形をとるのか、わたしにはまだわかりません。
そっとしておく、見て見ぬ振りをする愛も、間違えをただすのではなくて、その人が間違えるのを眺めている愛もあるのではないかと思っています。しなくて良い失敗も多いのかもしれませんが。
わたしは親を傷つけるダメな人間です。
親以外はあまり傷つける前に、退却できるので、大丈夫です。
わたしが思うのは、本人が困っている以外のことについて、忠告するのはあまり良いことじゃないような気がします。
わたしは厳しいことを言われると何ヶ月も鮮明にその声が残って、頭から去りません。何年も残ることがあります。覚えていたくて覚えているわけではないので、そういう体験をすると、その人から去ることが多いです。それは、その人を危険だと感じるからです。わたしにできる、精神を保つための自衛が、その人からできるだけ距離を置く、ということです。
わたしは人の言うことをゆがめて受け取る、そして、人の助言を聞かない、イエスマンしか回りに置かないと、親から言われました。わたしにはたくさん反論があります。あるけれども、反論を言うことが許されませんでした。それは二ヶ月も前のことですが、未だにその声がわたしの頭の中で鳴り響いていて、とても苦しいです。あなたのためを思って、と、あなたの幸せを思って、と言われたのですが、わたしは今その助言そのもので苦しい状態にあります。
これは恨んでいるとか憎んでいるとかじゃなくて、わたしの脳が起こしていることです。これが困っていることです。苦しいことを言われてわたしが苦しむことと、愛があると言うことは、両立しています。わたしはそのアンビバレンツな状態に引き裂かれています。
わたしはコントロールされるのが嫌いです。
両親はわたしを良い方にすすませようとコントロールします。わたしが彼らの言うことを聞かないとなると、わたしの恋人に「あなたの言うことなら聞くようだから」と言いました。
わたしは恋人にコントロールされるために、恋人と付き合っているわけじゃないから、それは間違っていると思います。恋人はわたしの困っていることを聞いて、どうしたら良いか教えてくれます。それは、わたしの困っていることが先にあって、それを相談しやすい態度をいつも取っていてくれるから、成り立つことです。
わたしは両親から離れているから、そういう関係にないし、困っていることを打ち明けようとは思いません。以前には困っていることを相談していましたが、その他の、「わたしがいずれ困りそうなこと」をたくさん教えてくれるようになったので、パンクして、無理になりました。
困っていることを聞いて、どうしたら良いのか教えてくれるのか、と言う態度と、わたしの問題点を探して、それをどうしたら良いのか教えようとする態度では、ずいぶん、受けるストレスが違います。
わたしは先回りされたくありません。これはわたしの人生なのです。
わたしはずいぶん迷惑をかけたと思います。そして、心配もされています。でも、これはやっぱりわたしの人生だから、先回りされたくはないのです。
いつまでも、わたしたちにとっては、子どもだからという台詞はとても重いです。わたしは確かにたいへんお世話になっているから、その言葉を否定できません。でも、お金があったら、今までかけた迷惑を返済できたら(それは不可能なことですが)、わたしはそれを否定したいです。それは親からの甘えだと言いたいのです。
わたしは理解されないかもしれませんが、大人です。
大人は自分で決めて、自分らしく、自分を生きて良いのです。
価値観が違うからといって、否定する言葉を受け入れないからと言って、ダメなわけじゃないです。
わたしはしっかりしていないように見えると思いますし、実際しっかりはしていませんが、国民の義務を果たしている、大人です。
だから、大人として扱われたいし、そうしてくれる人と接したいと思います。
わたしを親が子ども扱いすることは、どうしようもないから、なるべく一緒にいることを避ける、というのが現実的な手だてとなります。
わたしは恋人の言うことだから、言うことを聞くわけではありません。聞かないこともたくさんあります。あるけれども、それを尊重されているから、意見を聞くこともありますし、安心して相談できます。
そして、その関係は親とはもう築けないものなのです。
だからといって、わたしが親を愛していないとか、そういうわけではありません。
気がついていない、マナー違反を教えてもらうのはありがたいことだと思って感謝はしています。
でも、うまくいかないのです。
愛とうっとうしさの間にある、生々しい感情が、そこには横たわっています。