c71の一日

生活の記録

おかあさんとどういう風に離れたか

おかあさんと会わなくなって四年経ちました。
別段、さみしくなったり恋しくなったり会いたくなったりしません。
予想外でした。少しはそうなるのかと思ったのに。逆に、会うことを恐れています。
懐かしさって、薄情ですね。



わたしが彼女と別離を決意したのは、そう短時間と言うわけではなく、十年くらい悩んでいたのです。お医者さんにも、母親と別れろと勧められていました。でも、彼女の人生が心配で離れられなかったのです。それが病理だったのですけど。


彼女がわたしの人生に侵入的で、若さや美しさを搾取していたから。わたしは病んでいた。彼女は大人だから、子どものわたしが心配することなど何もなかったのに、彼女が死んでしまうのではないか、と思って、自分が犠牲になることで彼女が生きられるのならばと、一緒にいて、何でも言うことを聞いていた。



聞いていたのに「あんたは言うことを聞かない」といつも言われていたので落ち込んでいました。



いろいろなことがあって、社会から逃げて、いろいろあって、入院して、自閉スペクタル症と診断されました。
おお、そうか!と思いました。
たまたま入院したところが発達障害を専門にしていて、若い人を専門に見ている人だったからラッキーでした。しかも、アダルトチルドレンにも躁鬱にも、鬱にも詳しい人だった。
最初は誰とも話さず部屋にこもっていたけど、だんだん、話したりして、でも、十五分で疲れきって、ベッドでほとんど寝ているか、筋トレしていました。脅迫的に筋トレしていた。


ケースワーカーに相談したけど入院費は余りやすくならなかった。月八万円に抑えられる場合があるんだけど、月をまたいでいたので。
発達障害が何かも分からなかったので、退院後には調べました。
調べたら、当てはまることも、当てはまらないこともあって、情報収集のためにブログを開設しました。
交流を目的としたわけです。自分の考えを書いて、他の人がどうなのか、知る。


その過程で、わたしはおかあさんと、縁を切りました。
ただ、連絡を一切絶っただけです。追いかけては来ませんでした。その点よい人だったと思います。
診断が出たら、元気が出て、障害者手帳も二級を取って、反対を押し切って、身体援助ももらって、そのおかげで、たくさんはたらくことができるようになりました。お医者さんがどうしても、障害者年金は反対したので、それは妥協しました。働くことの足かせになると言われて。

手帳も自分を障害者だと思いすぎるのではないか、自分の可能性を抑えてしまうのではないかと心配されましたが、そんなこともなく。

いやな人間関係は一掃しました。
お医者さんに止められたのでとか、具合が悪くなるのでとか、耐えた結果障害者になったので、とか言いまくりました。


今はお金を稼ぐことが楽しいです。
なぜなら、わたしは血縁に頼れない人生がこれから待っているだろうので、頼りになるのは、ネットワークとお金です。
がんばります。誰かがなんとかしてくれる時代は終わった。そもそも幻想だった。
診断出ると元気が出ます。
謎のパワーが出て来て、いろいろ納得して、行動できるようになって、良いこと尽くめでした。


残った悩みは、パートナーがまたいないことです。
いなくても全く困らないんだけど、将来困るのかなとか、わからないことについて、不安になってる。
いないほうが、自分としては、楽なのが分かっているのですが、なかなか、価値観って抜けないものですね。