c71の一日

生活の記録

知性も美しさもわたしのもの

生まれたくて生まれて来たわけじゃない。



最近気になるのは、ツイッターで、「良い父よい母のもとに生まれて来て感謝。人を見る目もある。自尊心も培われた」というようなツイートを見る。
逆に「虐待されなかった、というのは資本だから。勉強できる環境を用意されて勉強できたのも親の恩恵」みたいなツイートも見た。
これは、勉強して来たのが努力なんだから、ということに反発したツイートで、努力できないような環境の人もいるんだという意味なんだけど。でも、これをそのままストレートにとると「努力して来たのも、全部親の功績に還元されてしまうのか」と思う。


親の功績じゃない、還元されたくない。
わたしは、わたし。
わたしが手に入れて来たものは親がお膳立てしたものだろうと、なんだろうと、わたしのもの。
なぜならば、わたしが選んだから。
好きで生まれて来たわけじゃないから。
親は私を好きで生んで育てた可能性が高いけれど、わたしはその意思と同じじゃない。
好きで生まれたわけじゃない、ってことが、親とわたしを区別する大事なこと。



勉強できるからといって、からだを壊すまで勉強させられたことは忘れられないし、体調を崩して救急車で運ばれたらつかみかかられたとか、推挙にいとまがないけれど、わたしはわたし。
環境が良かったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わたしから分離できない。
かといって、出自が全部決めるとも言いたくない。
自尊心が培われなかったから、だから、それがなんだ。培われないなりにやっている。
痛めつけられて自立できないようにさせられて、巣立ちが遅かった。でも、それも「成人してからも親元にいたのは自分の意思でしょ」と言われる。「物理的に縛られていたわけじゃないでしょ」と。
家に一切友だちを呼んではいけない、お父さんがいないことを悟られてはいけない、というルールの中で育てられた。
わたしはそのことに反発して生きて来た。お父さんを恨みながら。おかあさんを恨まないように必死に努力しながら。
それから、おかあさんを恨みだして、お父さんのことは恨まないようにしようとした。
わたしが生きて来たのは親のお金で。



でもだからといって、わたしの持つ美点が、親の功績に還元されると思いたくない。
そうしたら、出自がすべて決めて、わたしの意思なんてどうせ関係なく、環境だけが左右して、その環境も親の財力に左右されて。わたしの意思なんて消えるがごとく扱われたくない。
わたしは生まれてきたくなかったんだから。その意味でわたしは親と違う。別の人間だ。



誰かが生きるのに、他の誰かのリソースを使わずに生きるなんて不可能だ。社会の中で生きているのだから。たまたま子どもの頃は親の比重が多かっただけ。だんだん、少なくなる。



わたしは自発的に本を読んで育った。「本を読むような環境を整えられて、殴られずに育って良かったね」という人もいるのかもしれない。わたしは家に帰るのがいやで外で本を読んでいた。教科書を燃やされている友だちもいたけど、わたしの教科書は燃やされなかった。運が良かったのかもしれない。
「理解力のある頭脳に生んでもらってよかったね」という人もいるかもしれない。これはわたしの頭だ。母が理解力のある頭脳に生もうとして生んだわけじゃない。わたしはたまたま運良く、賢い頭を手に入れた。これは、天からの授かり物だ。




「親のおかげでわたしは幸せ」、という人も、「環境によって努力するという概念自体も与えられなかった層がいる」という人も、同じような危うさを感じる。環境によって自分がすべてを作り上げられたような。

それは無力感だ。無力感につながる。



努力したから自分がある、だから、能力のないひとは努力が足りない、という考えも間違っていると思うのだけど、この三つを繋ぐ間。重点のような、中心のような、場所。それがあるはずだ。



わたしは親と違う人間だ。わたしは生まれてきたくなかったから。
わたしは生きている。
仕方がないとあきらめた。あきらめたからには自由に生きていたい。わたしは生まれてきたくなかったという気持ちを忘れるくらい、自由に、自分で、独立して、生きていたい。そのための材料を運良く授けられたことは特権なのかもしれない。
だけど、この、知性も美しさもわたしのものだ。
わたしのできないことの多くも含めて、わたしの欠点も、誰でもないわたしのものだ。



わたしの死にたかった気持ちも辛かった気持ちも絶望も希望も全部含めて、わたしだ。
感謝しない。