脳の欠陥か、わたしの意思か
わたしは変わっている。言動も変わっているし、服装も変わっている。問題もたくさんある。
何がストレス源かわからないけれど、そこから逃避するために、過食や散財などの問題も抱えている。
人と暮らすとき、母親と暮らしていたときに身につけた、「ふざけた態度」を模倣してしまうところも、今困った点だ。言いにくいことを言って、相手の気持ちを悪くすることも怖い。
わたしが無償労働に対価を求める方針をたてたのは、わたしがめんどうなことを今まで負担していたことをわかってほしかったからだ。感謝はしてもらっていたけれど、それだけ。主体的に家事に取り組んでもらえなかった。一緒に暮らしているのに。
一人暮らしは何もかも一人でしないといけないのは当たり前だ。できなかったら、アウトソーシングするしかない。快適に暮らすなら、どうにかしないといけない。そして、二人に増えたのに、その何もかもわたしがしないといけない、という現状は変わらなかった。自分のことを自分でやっていた彼は、自分が家事をしていない、と言われるなんて思っていなかっただろう。それは、当たり前の行き違い。
家事には三つのレイヤーがある。計画、準備、実行の三つのレイヤーのうち、実行部分の半分しか、同居人に負担してもらえなかったのは不満だった。計画、準備の買い出しや献立の計画の労働を理解してもらえなかった。同居人は、アウトソーシングも良い顔をしなかった。雰囲気のことだから、そんなつもりじゃないと言われたらそれまでだけれど。わたしは、自分ができないことをアウトソーシングすることに抵抗はない。快適に生きることで、生きる力が増して、病気も改善するから。
それに、同居人が増えたから、自分のいた環境よりも、良いものを提供しないとといけないと思った。
わたしが、洗濯物を出しっぱなしにしていても、わたししか困らないけれど、同居人がいたら、そういうわけにはいかない。適当な食事も出すわけにいかない。
アウトソーシングを受けるとき、同居人は、自分が、アウトソーシングの恩恵を受けること自体に抵抗があったのかもしれない。でも、アウトソーシングの結果の快適さと、わたしが提供する快適さと、どちらも、他人が同居人に提供する快適さだから、同じことだとわたしは思ってしまう。
これは、わたしの脳の欠陥なのだろうか?わたしにはわからない。
でも、脳の欠陥も含めて、わたしは、わたしだから、しかたがない。
ヨシケイを頼んで、計画=献立立て、準備=配達、の部分を週三回、アウトソーシングしたとき、「c71が人間的に成長するために、頼まない方が良い」「高い」と言われたときに、わたしの何かが壊れてしまった。わたしは家事を通して人間的に成長するかもしれないが、人に言われたくなかったし、ヨシケイも、自分のお金から出して、その上で、同居人に食べさせようと計画していたから、それについて、言われることで、がらがら壊れてしまった。
わたしが料理や、買い出しを分担するのは、ロマンチックで、相手に尽くすという幻想を抱けて、とてもよかった。今だって、していたい。でも、それはおままごとだ。
相手は大人だから、自分のことは自分でした方がよい。その自分のこと、に含まれる範囲が、わたしたちは、お互い違っていたのだった。
同居人の、言葉を借りれば、その方が相手の人間的成長になるんだろう。わたしはそんな風に思わないけれど。家事は淡々と毎日こなすことが大切だ。
夕食のたびに、お金をやり取りするのはさみしいね、と同居人は言う。わたしは、その「さみしい」が理解できない。わたしの「工数を把握してほしい」という願いが叶わず、さみしい思いをし、それを理解してもらえなかったように。工数を把握してもらっていたら、ヨシケイを頼むことに何か言わなかっただろう。それは現実的な手段だったのだ。
対価を要求するようになってから、同居人は自分の食事を自分で用意するようになった。
完全に別々で食べる。
ヨシケイについてだけれど、わたしの場合、ヨシケイを頼みだしてから、料理の手際も、味付けの案配もうまくなって、これが、おいしい料理を作る、ということか、とわかりだしてきて、急速にわたしは料理がうまくなって来た。
単に、素材の値段で比べると、高く感じるかもしれないけれど、技術料や、技術の向上のことを勘案すると、本当に頼んで良かったと思う。
わたしは素直でなく、こだわりがあると、同居人は言う。極端で、振り切れていて、あるところまでは優しいのに、突然切り捨てるという。それは、たしかに、わたしの特性だから、素直に聞けない部分もある。例えば、服装のことに関してだったり。
対価のことについてはどうなんだろう?
脳の欠陥からそう思うのか?合理的な判断か?
わたしは合理的な判断のつもりだけど、相手からしたら違う。
だけど、わたしは、いやなことはしないことに前に決めたから、仕方がない。
わたしが、料理に対して、対価を要求すると、同居人はそれくらいなら、自分で作って食べるという。
だから、それで良いんだろう。
わたしのことを同居人は、ケチだと思っていたり、心が冷たいと思っているかもしれないが、対価を払わず、食べることもやっぱりわたしにとっては冷たいことなので、やむを得ないと思う。
結婚していたら、違ったのかもしれない、そうしたら、食費を入れて、頼むことできるものね、でもそれは同居だから難しいね、と彼は言うけれど、「結婚したって、同じだよ、対価は要求するよ」と言った。彼が自分で何を頼んでいるか、理解していない限り、わたしはこのままでいる。そういうつもりで言ったけれど「c71はそういう人なんだね」と言われた。自分でできないことを人に頼むとき、そんなに対したことじゃないと、人は思うのかもしれない。わたしにとっては、頼まれて、自分以外の用事をするのはとても負担だ。好意があるからするけれど。わたしには、お金を稼いで、そのお金で、出来ないことを出来る人に依頼して、対価を払う、という交換の方が、理解しやすい。そうじゃないことって、あまり理解できない。
同居人は男だから、女の人が家事をする、ということが自然に思われるのかもしれない。
同居人は、自分がそう思っていることを、具体的には言わないから、本当はそう思っていないかもしれないけれど、彼は、自分で買い出しにいって自分でメニューを作るのが普通だという。
でも、その普通に「彼自身」は含まれていないから、その普通を実行するのは、わたしだけになる。
わたしは実際「普通」じゃない。彼自身が普通でいるために、なにもコストを払わないのに、わたしが「普通」を維持するコストを払うのはおかしいような気がする。
わたしが障害を持っているから、外部の助けを借りるのは仕方がないのかも、とすら思われたくない。
わたしは一人の人間として、対等にいたいし、「普通」を作るために、わたしだけがコストを払うのは、おかしいと思う。
食事に関して、「普通」なんて存在しないと思う。
わたしは女だから、自分が尽くして保たれる平穏というものを拒否したい。
そこは、わたしが人生を賭けて譲れない点だから、仕方がない。
ここで、自分を曲げると自分がなくなってしまう。そういう恐怖や虚無を感じる。
わたしは人間をあきらめたくない。
だから、同居人が、対価のことを受け入れてくれたのはその第一歩だ。
そのために、わたしが嫌われて、捨てられたとしても、受け入れよう。
わたしは自分を変えられないのだから。
自分を変えてまでほしいことじゃない、ってことなんだから。
わたしは普通じゃないから。
別に同居人を責めたいわけじゃない。
実際、対価制度を受け入れてもらったから。
わたしは、それで、同居人が、いい気分じゃないことを、やっぱり恐れている。
思い通りになったし、わたしなりに正しく快適な方法だけれど、恐れや不安はある。
わたしにとって「普通」ってファジーで理解できない。わたしに対して使われるとき、わたし以外の人に都合が良い場合に使われることが多い気がする。わたしのために、教えてくれることもたくさんあるのは、わかっているけれど。服装やTPOについて、教えてもらうときには「普通」のことを教えてもらえるのはありがたい。
でも、同居を運営する上で「普通」ってわたしには、わたしの負担を増やすことだと感じる。
責任の所在を、偏らせる言葉だと感じる。
「普通」はこうするものだ、という言葉。
それを使って作り上げる世界は、あやふやで、どちらかが、不満をためていく構造に見える。ファジーに、これやっといて、ってことが成り立つのは、権力構造と切り離せないように思うし、わたしは権力構造に取り込まれたくない。
難しく考え過ぎだと言われるけれど、損をするのはわたしだし、わたしは快適に生きていく、自分のために生きていくと決めたのだ。
相手のために尽くすことは楽しいし、ロマンティックだけど、それだと、ダメだって、昔学んだのだ。
これは、わたしの脳の欠陥なのか、わたしの意思か、どちらなんだろう。