c71の一日

生活の記録

二次障害のこと

わたしは高機能自閉症に近い感じのスペクトラムだ。
いろいろ紆余曲折あって、塾講師になった。
別に塾講師になりたくてなったわけじゃない。
ただ、学歴しか強味がなくて、それを生かせる仕事に応募しただけだ。
説明がうまいと言われたり、人の話を聞くのがうまいと言われるようになったのは仕事で鍛えられたからだ。


わたしは、わたしの特性を理解していなかったので、危険な子供時代を送った。
不安定でぐらぐらしていたから、利用されて、自分からも何が安全かわからなくて、ただ勢いだけで危険に飛び込んだ。
そうしないといられなかったから。だから、たくさんの人に迷惑をかけたし、自分でもダメージを負った。


それはしたらだめ、と言われるだけじゃなくて、それをしてしまう、その原因のつらさをなくすことが必要だったと思う。
でも、誰もわたしが何に困っているかわからなかった。わたしも、何に困っているか言葉を持たなかった。



自閉症なのは仕方がない。生まれついてのことだから。誰に何を忠告されても、わたしの中にある困ったことは消えない。
それを誰も見ることができない。わたし自身でさえ、てさぐりなのだから。



こんがらがった問題の表面を見れば簡単で、「それをやめればいい」となるのだけど、でも、「それをしてしまう」なかには、生き延びるための工夫がいろいろ混じっている。


姿勢一つをとっても、わたしはまっすぐ座っていることが難しかったり、大事な場面で眠ってしまう。
まっすぐ座ればいい、眠らないようにすればいい、と言われることもある。それは絶対的に正しい。でも、眠らないでいることも、まっすぐ座ることも、わたしにはできない。


まっすぐ座っていないよ、と指摘されても、どうすることもできない。
まっすぐ座っていない自分を受け入れてくれる人を探して、指摘する人を避けることしかできない。



正しいことを言われると、そうしないといけないなと思う。
でも、できない。
言われるとつらい。わかっていて、正しいことも知っていて、でもできないから、混乱する。
言った側はわたしの混乱に付き合わない。
ただ、言われたことができない人なんだなと思って、わたしを攻撃することさえある。
やればできるでしょ、と。


障害のあるなしにかかわらず、できないことがある人はたくさんいるのだ。
そして、言われたことのダメージを言った側は共有しない。



これは一つの例だけれど、適応できない部分を、直すことができない。それが複数、重層的に集まると、パンクしてしまう。
だから、逃げ道を探す。そして、嫌だなと思うことを避ける。
避けることで少し快適になる。
真正面から向き合うだけでは生きていけない。
二次障害とはそういうもの。


一つのことじゃなくて、いろいろなことが絡まりあって、それでも生き延びるすべを工夫している。
その工夫が、社会的に適切じゃない場合もある。そして、その工夫が、危険だったりもする。
でも、しかたがない。少しずつ進むしかない。


見ている側は、問題が簡単に見えるのはわかっている。
だから、問題が簡単じゃない人たちと、かかわりあって、助け合って、生きていくしかない。


障害の特性は変えられることもある。でも、長い時間がかかる。
その長い時間に付き合ってくれる人は少数だ。お金を払って付き合ってもらうことが大事だ。何か対価を渡すこと。
そうしないと、お互い持たない。


二次障害はもっと複雑だ。
トラウマが消えればいいのにと願っているのは当事者だ。
でも消えない。だから、問題行動となって表面に出る。その表面を直せと言われるのはつらいことだ。
根本が治らないと表面も治らない。
だけど、根本を治すのは人格をすべて変えるのと同じくらいのエネルギーがいると感じている。
二次障害はわたしのせいじゃない。


たとえば、社会は健常者のためにできているので、わたしが話しやすい言葉で話すと、伝わらない。
だから、合わせる作業が必要となる。
それは、健常者には必要のない負荷だ。
その負荷を負担するだけで、とても疲れる。
別に健常者の社会を変えろというわけじゃないし配慮しろとは言わない。
絶望しているから。
でも、せめて、放っておいてほしいと思う。
それに対する、対応は、さらに負荷を増やすから。
そしたら、問題行動も増えてしまう。




生きているだけで御の字だから、より良くを願うのは自分だけで良い。
他の人に言われると壊れてしまう。負荷が高すぎるのだ。


もちろん、現実に向かい合うことが、もっとも大切なことなのだけどね。
でも、それができない時間もやっぱり大事にして、自分を責めないように、責めてくる人を避けて、自信を取り戻すことが、結局、二次障害や、アディクションを減らすことにつながると思うのです。