c71の一日

生活の記録

わたしと国民という言葉の距離

わたしは昔無邪気に自分を国民だと思っていました。
その言葉と、わたしの距離はゼロでした。
無邪気に、わたしは日本に対して帰属意識を持っていたのでした。


そのあと、事件があって、わたしは国に助けてもらいました。
日本に住んでいるから日本に助けてもらったのですが、そのときに国との一体感がなくなったのでした。
わたしが勝手にそうなったのだけど、実際、わたしのことをバカと思う人はいるだろうと思うと、やっぱり、帰属意識はなくなりました。助けてもらったのにね、不思議だ。

堂々と国民を名乗れなくなりました。


なぜなら、以前のわたしは国に貢献していると無邪気に思っていたし、国に守られていると無邪気に思っていたからです。


でも、その思っていた現実はもっと身近な現実でがらがらと崩れました。
いじめられると、子どももそうですが、集団に対して帰属意識や安心感がなくなるのです。


わたしが国民という言葉を信じていたときには、「かわいそうな人」がいるから、助けて上げるために税金を払うというイメージでいました。
それで、一時期税金を払えないときに、国との一体感がなくなりました。
人に対して、堂々と国民ですと名乗れなくなった気がしました。貢献していなかったからです。
わたしにとって、国民という言葉は国に貢献していて、なんぼだ、という言葉だったわけです。

無意識に、国に貢献しているって気持ちがあったときには、そうじゃない人への意識はあまりありませんでした。


かわいそうな人と思っていたから、対等に思っていなかったのです。

「わたしは貢献しているから国民だけど、この人は貢献していないんだね、かわいそう」と思う気持ちは、その「かわいそう認定した人」を分ける気持ちに近かったと思います。おまけのように、国民に入れてあげていた、そういう気持ちがなかったとはいえません。
でも、自分自身が、そういう立場になったとき、まさに昔の自分に裁かれたのでした。
それと同時に、国民という言葉がもつ排他性に気づいたのでした。
おまけのように、誰かを国民といれるということは、思いつきで、誰かを国民という言葉から、はずすこともできるということです。

わたしが思っていたからといって、他の人も思っているとは限りませんが、別に国そのものに迫害されたわけでなくても、大きなものに疎外感を感じる人はある一定数いると思うのです。



国の政策で職を失ったりとか、帰属意識を持てなくなったりする人っていると思うのです。

国民という言葉を使う人が、思っているとは思いません。それどころか、わたしみたいな人のことを想定してようが、想定してまいが、国民という言葉の中にすべての人間を含めていってくれているんだろうと思います。
それでもなお、わたし自身の気持ちとしては、国民という言葉から、意識がはがれ落ちてしまったという感触があります。


国民として恥ずかしい気持ちになったとき、人前に出るのが難しい気持ちになりました。
だから、少しわかりにくいかもしれませんが、わたしは「デモ」の頭数になれない…すみません…という気持ちになりました。
そして、「頭数」という言葉が少しいやだなと思いました。
数じゃなくて、一人一人がそれぞれ集まることが、貴重なんじゃないかなと思ったからです。


この前は、市民と呼ぼうと提案しましたが、今は人間で良いんじゃないかなと思います。
「人間をなめるな」でも、意味は通じるでしょう?良いんじゃないかな。


でも、置き換えだけではだめなんでしょうね。
本質的に。
寄り添いながら過ごせる人が増えることが大事なんですよね。
そうなったら良いなと思います。
過去のわたしが、今の自分を裁いているように、逆に、過去の自分が、今の自分のような人に寛容であったなら、今わたしはもっと生きやすかったのではないかと思います。
それは誰でも同じことだと思います。


少なくとも、頭数という発想は、個人の事情を慮って、寄り添う姿勢とは、遠いと思います。
国が、人々を、まとまりでかずとしか見なさないことが問題なのだったら、やっぱりどこかで、寄り添うという発想が大事になるのではないかと思います。

このエントリは、わたしのように、国民という共同体から、やむを得ず、はがれ落ちてしまった、という意識のある人が他にもいるんじゃないかと思って書きました。そうじゃない人の方が多いと思うのですが、でも、やっぱりいると思います。

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