c71の一日

生活の記録

愛国、男尊女卑、自分

愛国は、男尊女卑と必ず結びつく。
戦う者、守る者がえらく、守られる者がえらくない。
でも、守られる者が存在しないと、守ることができない。
守られる者には決定権がない。
戦わないでほしい、とか、死なないでほしい、とか、方針を勝手に決めないでほしいとか、言っても聞いてもらえない。もう、聞いてもらえない、懇願する立場、ということ自体が弱い。
そして、戦いにいくのは男性だから、男性がえらい、という結論が出る。
そういう決まり事があると、なぜか、男性は嬉しいみたいだ。


女の人は男の人が見ているその「現実」がいやだというと、お前のために決めていることだとか、現実を見ていない、とか、言われてしまう。
でも、現実はその人その人にとって、さまざまだから、一方的には本当はいえないものなのだ。
でも、世の中が「愛国」に染まっているときには、そのかそけき言葉は消されてしまう。
「わたし」にとっては、何が大切か、どうしたいのか、自分で決めたいことなのに。
でも、「男尊女卑」の世界では、何がその人のためになるのかは、「えらい」人が決めて、指示するほうが、合理的だし、あとあとその人のためになる、と信じられている。
そして、えらいのは、たいてい男性だ。
わたしは男性じゃない。


自分のことが自分で決められないでいると、「わたし」はだんだん気持ちが落ち込んで、自分が何をしたかったのか、何をすると楽しかったのかも、わからなくなって、なにも自分で決められなくなって、なにをしても正しいのか、間違っているのかわからなくなって、不安になって、自分の人生を生きられなくなってしまう。
世の中に対して安心していられなくなってしまう。
「えらい人」に何かを任せると、一回しかない人生が、その「えらい人」が決めたなにかのために消費させられてしまう。



天皇が神だった時代があった。彼が、「神」だと「信じる」ことが「現実」だという時代があった。
今、彼を神だと信じている人はいないだろう。
今は、彼は「象徴」だと決められている。マーク、印、そういうものだ。
この決まり事も、時代が下れば変わるだろう。現実は、今信じているほど確かなことじゃない。
現実と信じられていることは、みんなの無意識や意識下での決まり事だ。


「愛国」という夢は、ある一定の人たちの「現実」だ。
でも、わたしの現実じゃない。
天皇を頂点に抱き、それらに守られている市民、という図は、家父長制の象徴だ。
何かを頂点に抱いて、その下にいる者、という構図自体を、家父長制、と呼ぶからだ。
これは、現実にある仕組みだから、現実に作用する。

だから、愛国自体は概念だけれど、現実でもある。それを信じていて、その概念に守られている「男性」は、その決まり事に従って女の人を扱うからだ。そうしたら、概念はからだの外に出て、行動になって、他者に作用する。そういう人の数や割合が多かったり、権力を持っていたりすると、それが世の中をつくる。概念が、世の中を作る。


なぜ、女の人を、「守るもの」という風に扱うかというと、それが彼らの「あってほしいと願う」現実を実現するために必要だからだ。駒だ。消費物。
あってほしい現実は、「素晴らしい日本」だし、「優れた自分」だ。「えらい」「正しい」存在である、そういう風に振る舞える世界。
そのための供物として「女」「子ども」は必要だ。そして、その「女」「子ども」には弱くあってもらわないといけない。「守る」ために。


彼らの現実にとってみれば、「女の人を守る」のが現実だし「女の人には現実が見えていない」と説教することも現実だし、世の中には危険がいっぱいだ、と教えることも現実だ。
その「危険がいっぱいある」の危険を、作り出すことも、必要だ。


彼らは、わたしのことも「女」に見えるから、自分の現実に合わせて、わたしを扱う。
それに従わない人は、殺してしまうこともあるくらい、愛国、という「現実」は強い。
愛国という現実を守るには、「守られるべき弱い女子供」という存在が不可欠だから、いつまでも、女や子どもには弱くあってほしい。だから、加害する。愛国を維持するには、弱くあってほしい存在を常に加害するという前提がある。加害していれば、女も子どももいつも弱っているから、それも都合が良い。

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このエントリを、荒唐無稽な陰謀論天皇批判、と言った人がいるけれど、それがその人にとっての現実。それは、わたしには変えられない。
それと同じように、わたしにとって、「愛国」が「男尊女卑」と分けられない仕組みであることや、わたしが「女」に見える形をしていることや、だから、わたしが「男尊女卑の枠」に入れられてしまうこと、それを拒否したいことも、やっぱり、誰にも変えられない。


夢を形にするために、現実を動かすことが誰にでもできる。「愛国」の旗印のもとに集う人の夢への渇望は強い。だから怖い。
その渇望はわたしには感じられる。それはわたしの「感じ方」だけど、その感じ方自体が、わたしにとっての現実だ。そして、その感じ方は、「愛国は男尊女卑とセットだ」ということをわたしに教える。わたしに対しての、「守られる者でいろ」という圧力を感じるし、「守られる者は常に脅迫される」という圧力も感じる。


だから、わたしは、あのエントリを書いた。


現実は、ちょっとずつ、いや、かなり、人によって違う。
人をまとめるには、見ている現実が同じものだ、と教えることが便利だ。
そのために、共同幻想があるともっと良い。
自分の見ている現実が、自分だけのものだと思うと、不安になる人もいるらしい。
みんなと一緒が良い人もいるらしい。
そういう人のために「愛国」は便利だ。良い気分になって、まとまることができる。
自分がよいことをしている気持ちにもなれる。
正しいとも思える。
帰属意識も得られるから、安心する。
ひとつひとつ、考えて、確かめて、行動しなくても良い。
誰かが、方向を指し示してくれるから、楽だ。
そういうメリットが「愛国」にある。
気に入らない人を、排他的に、蔑むための理由づけにもなる。
共通の敵を見つけて、連帯することもできる。
それは、きっと、楽しい人には楽しいのだろう。
何かの属性で、自分と違う人を攻撃するための大義名分も得られる。
そういう攻撃をすると、きっと気持ちがすっとして、強いような気持ちになれて、正しいことをしている風にも思えて、味方もいて、安心もして、傷つかないし、難しい複雑なことも考えなくて済む。
難しいことは、「愛国」の幻想を作り出した、もっともっとえらい人が考えれば良い。それに任せれば良い。だから、責任も取らなくて良い。


自分が、「日本人男性」というだけで「えらい」と扱われる。
それが、「愛国」のもたらしてくれる価値だ。
それはきっと楽しいことだろう。
その楽しさのために「愛国」を守るのだろう。
「愛国」は「日本人男性」に正当性、権力、そのほか素敵なものをいろいろ与える。


だけど、わたしは好き好んで、守られる立場になりたいわけじゃない。
昔は、守られなくなったら、どれだけ恐ろしい目に遭うのか、こわかったけれど、実際にはもともと、具体的に守られてはいなかったな、とわかった。
脅されていただけで、守られていなかった。
そして、守る、という人は、一緒に、わたしのしたいことを妨害して来た。
庇護のかわりに、不自由を強いて来た。
庇護者は、常に、弱い者を、教え、諭す。
諭されると、したいことができなくなる。
心が少しずつ死ぬ。心が死ぬと、現実を感じられなくなる。
よけい、「愛国」という夢の中の駒として使われやすくなる。


わたしにとっての、現実は、誰かにとって、絶対じゃない。
だから、誰かにとっての、疑いようもない、絶対の現実は、同じように、わたしのとっての現実じゃない。
わたしにとっての現実は、考えて、作るもの。今までの世界がそうだからと言って、飲み込まれずにいたい、と願うこと。