c71の一日

生活の記録

名前を奪われること、名前を付けること

DV加害者は名前を奪う。


名前を呼ばなくなる。名前というのは、自我や、アイデンティティのよりどころになるものなので、表面上よりもダメージが大きい。
名前を失った人にしかわからない痛みだから、人に話しても、わかってもらえないので、孤独を深めていく。



いろいろな方法で名前を奪うことができる。


結婚するとか、全く違う名前で呼ぶとか、「おい」としか言わなくなるとか。


(それでいうと、夫婦同姓の今の現状だと、女性は、国家によって、名前を奪われている。夫婦別姓を選ぶことができない状態は、国家から暴力を振るわれているのと同じだ。モラハラということ)


名前を呼ばれなくなると、自分が何者かわからなくなる。今まで築き上げてきた、小さな歴史が失われる。そして、精神の安定が奪われる。


自分が、人間ではなく、名前のある一人ではなく、ただの役割として存在しているのだということを突き付けられる。
役に立つときだけ生かしてもらえる存在だということを、知らされる。


DV加害者にとって、わたしたちは人間ではない。
人間として尊重されないとはそういうことだ。


たとえば、研究者が結婚すると、姓が変わり、今までの研究成果が引き継ぐことができず、全く別人の成果として扱われることを思い出してほしい。


名前を失うということは、自分の歴史をつなぐアイコンを失ったと同じことだ。



DVから逃げたときに、「あれはDVだったのか」と今度は名づけなおす作業が始まる。


自分の起きたことに、だんだん名前がついてくる。DVを受けているときには、情報から隔絶されているから、自分に起きたことが何だったのかわからない。


名づけていく途中に、怒りや、悲しみ、悲しみとも名づけられない、「わたしは多くのものを失ってきたのだ。そして、その時間は二度と帰らないのだ」という強い喪失感によるショックを感じていかないといけない。そこからは逃れられない。逃れたいのに。

怒り、悲しみを繰り返して、過去を振り返るのは無駄だと知っていても、生活に組み込まれた小さなおびえる癖は、なかなか抜けない。
そのことを目の当たりにするたびに、どうしようもなく、大きな尊厳というようなものを失われたのだと実感していく。
その作業はきついものだ。


逃げたから、もう、明日を向いて前向きに、というのは、夢物語だ。


奪われたものを、自分の中で取り戻す作業が必要だ。
奪われなかったら、しなくてもよかった作業なのに、と思うと虚しさがこみ上げる。
相手に、奪われたものを返せということの無為さもわかっているから、ただただ自分との戦いになる。

そうして、整理が始まっていく。わたしたちは、名前を取り戻し、名づけていくのだ。
そして、人生を取り戻すのだ。失われたものは帰らないとどれだけ嘆いても足りない。嘆くことはやめる必要もない。
ごちゃごちゃした、怒りと悲しみと、解放された喜びと、喜びを感じてもいいのかという、許可を求める奴隷根性がしみついてしまっている悲しさを抱えて、ただ、時間をやり過ごすのだ。
誰にわかってもらえなくても。


ただ、自分の足で生きていくことさえできれば。失われたものを取り返すことはできない。その悲しみはどうしようもないけれど。
これからを生きればいいという言葉が、どれだけ虚しく感じるか。


わたしたちは、だから、語ることをあきらめていく。
でも、わたしたちは、名前を付けることができる。
そして、何が起きたのか、知ることができる。
人に伝えることができる。


これからを生きられなくても。今、生きていたい。


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