c71の一日

生活の記録

悲鳴を上げることすらできない

ネットと世間に流れる「少女はなぜ逃げなかったか」に答える:岡山小6少女誘拐監禁事件被害者保護のために(碓井 真史) - 個人 - Yahoo!ニュース
これを読んで、わたしなりに補足できることがあるかなと思って書きます。


犯罪被害と自衛の精神論 - ある精神病患者の一日
これを書いたときに、「普段から自分はもっと気をつけている」「退路をいつも気にして過ごしている、そんなのは当たり前じゃないか」という意見をもらいました。「背後から来ると思うのは当たり前、エレベーターで後ろにひとが来ないようにするのは当然」という意見もありました。

わたしが書きたかったのは、個々の事例ではなくて、病的に、世界に対する信頼感を失ったということです。個人個人が気をつけるのはご自由にと思います。


ただ、子どもにはそれができません。そして、期待してもいけないと思います。
教育することはできます。ただ、彼女たちには責任能力がないのです。身を守ることができないのです。

そんな中で、被害者はよく頑張ったと思います。
こわくないわけがないと思います。


わたしの経験から言うと、襲われたときに声は出ません。のどの奥がしまった感じになります。
おそらく、ナイフを突きつけられたときには、彼女は声が出せる状況じゃなく、「どう生き延びるか」まで考えていたのではないでしょうか。


十歳のとき、わたしには自分の性的価値があることを知りませんでした。それでも容赦なく、男性の大人は、わたしの性的価値を搾取しにかかりました。そして、わたしはその被害を理解したのは大人になってからで、トラウマに悩まされました。


十歳の彼女は、生き延びるためにすべての感覚を封じたと思います。だから、くつろいで、犯人の言うままに過ごして、波風を荒立てないようにしたのだと思います。


十歳と言えば、かなり物事を理解します。難しい本も読みます。わたしは十歳のときには法律の専門書を読んでいました。知的にはかなり洗練されていました。ただし、情緒面では、成長しきっていませんでした。



彼女は、命は助かりましたが、世界に対するおおらかさを失ってしまったかもしれません。そのことを思うと、彼女がこれから乗り越えるべき大きなものに対して震えます。
犯人は、彼女から大事なものを奪いました。ひとが自分を殺そうとするという目にあったのです。ナイフを突きつけられるという経験は、世界に穴があくような経験です。彼女は、自分自身に、性的関心を向けられていたこと、肉体や人生や、彼女の輝かしい時間が簒奪されようとしていたことを、知るでしょう。既に知っているとは思いますが、それがどういう文脈であったのか、その本当の価値を、長く生きるに従ってゆっくりと知っていくでしょう。


理不尽な目にあうとのどの奥が縮小して、声が出ません。そして、声を出したせいで、傷つけられるかもしれないという危惧もあります。


今回は、被害者の方の機転で、命が守られましたが、この幸運が、次もあるとは限りませんし、今まではそうでした。


ネット上では、彼女がなぜ逃げなかったのか、理解できないという声があることを上記のリンクで知りました。
それらの疑問を発するひとは、加害者と同じ発想をしています。犯人は殺しさえしなければ、彼女の人生を奪いさっても、罪はないと考えたのでしょう。それどころか、救ってやるとすら思っていたのでしょう。
これほど身勝手で恥ずべき発想はありません。彼女の人生は彼女のものです。
それをはき違えるひとたちは、すべて、加害者サイドにいます。
それは恥ずべきことです。


大人のわたしがならったことは、「ここは危険だ」と少しでも思った場合は、その場を離れるということです。
雰囲気を壊したくない、相手の気持ちを害したくない、と思う気持ちを捨てるということです。
たったそれだけのことでも、大人のわたしにすら難しいです。
犯罪を起こす方には、たっぷりと準備する時間があります。
被害に遭わないようにするのはとても難しいことです。