c71の一日

生活の記録

わたしを好きな人はいない

二番目のおかあさんに、「誰にでも愛想良くしなさい」と言われてから、混乱が始まっていて、調子が悪い。


何をしても誰からも嫌われているという妄想が始まった。
わたしは誰からも好かれないのだ。
わたしは人によって態度を変えるし、だから愛されない。

その一方で、相手によって態度を変えることは健全じゃないのか、と思う。


わたしはわたしなりに距離感をつくろうと苦心して、「好きな人には距離を縮め、愛想良くし、そうではないひとには無関心でいる」というルールを作った。

でも、それはだめだという。
良い人だと思われることが大事だという。
自分の幸せは、良い人だと思われることで作られるという。
自分が自分で幸せになるのは大変だけど、周りの人が良い人だと思ってくれたら、幸せになるのが簡単だという。
わたしには周りの人に良い人だと思われることの方が難しい。


わたしは、毒があるし、良い人だと思われない。
わたしは誠実にあろうとすればするほど、周りからずれて、言葉が通じなくなり、変な人だと思われる。
わたしは変な人だと思われるのがこわい。
普通に振る舞おうとしているけれど、変らしい。
それはわたしにはわからない。
他人がわたしをどう見ているのかもわからない。
苦しい、つらい。そのことを考えないようにしていたのに、パンドラの箱が開いてしまった。
あの一言で、わたしがどれだけ悩むのか二番目のおかあさんは知らない。
二番目のおかあさんが言うように、言う方もたいへんなのよ、ということだったら、言わない方がお互い大変じゃなくていいと思う。感謝も求められたからとてもつらい。混乱している。感謝することが大事、と言われた。感謝できない。わたしはおかしい。苦しい、死んでしまいたくなる。死んでしまっても良いのだろうか。良いなら死んでしまいたい。いや、違う、わたしは生きていたいから距離を置いて、それから眠って、そのあと忘れるのが一番良いのだ。


いろいろなわかってくれるひとを探して付き合うよりも、その場にいる人に良い人だと思われる方が幸せだと二番目のおかあさんが言った。

わたしは自分の居場所を作るために、とてもとても頑張って来た。
それがネットの世界であっても、趣味の世界であっても、頑張った。
二番目のおかあさんに同人誌を渡したのは、こういう世界もあると知ってほしかったからで、その本に書いてあることから、わたしに直した方が良いところを探してほしかったからじゃない。

もう、読んでもらうことはないと思う。





わたしは愛想よくしても嫌われるし、だったら、愛想良くしない方がましだ、と思っている。

とにかく苦しい。パニックだ。


わたしはどうせ、誰にも好かれない。好かれないんだったら、自由にして、自分の精神を安らがせて、その上で、好きになってくれる人がいたらいいな、というスタンスだった。

二番目のおかあさんは以前、「男の人に勘違いされる態度はやめなさい」と言った。
そのことと、誰にでも、愛想よくして良い人だと思われるようにしろと思われることは矛盾していると思われる。
同じ人が違うことを言うのはとても苦痛だ。


わたしは愛想よくして、このひとは何でもできるし、人付き合いもうまいはずだ、と思われたらと心配でならない。


とっても苦しい。


愛想良くできないわたしを好きになる人はこれから一切現れないんじゃないか、愛想良くしないわたしは間違っているのじゃないか、いますぐに変えなくても良いから徐々に変えたら?というのは「今のままのわたしじゃだめだ」という二番目のおかあさんからのメッセージだろう。


どうして、二番目のおかあさんはわたしを変えようとするのだろう。

わたしは今のままで自分が好きだ。楽しい。こんな感覚ははじめただから、しばらくでも良いから、このままでいたい。お願いだ。わたしは今、人生をはじめたところだ。

どうして、なのに、わたしが、今のままでいることを許さないというメッセージを与えて、わたしが今のままのわたしでいては、人に愛されないと教えてくれるんだろう。


わたしはこのままで良い。
今の場所にたどり着いたばかりで、景色を見てもいない。
なのに、どうして、次の場所に行けとせかされるのだろう。
二番目のおかあさんは薬を減らすことも示唆した。
それは、わたしが死んでも良い、という意味だ。わたしは薬に生かされているので、それがなくなったら、働けないし、感情のコントロールもできなくなる。
二番目のおかあさんは、感情のコントロールをしなさいという。だから、薬なしではできないのに、そのことをいうのは、矛盾している。
世界に感謝をという。
恨まないで、という。
わたしは恨まないと生きられなかったし、生きる力は恨みと憎しみから湧いてきた。
先取りして教えてくれるのがありがたいと思わないといけないのかと思っていたけれど、苦しくなって来た。
このブログも読んでいるかもしれないのだけど、読ませたくて書いているのではなくて、わたしは書かないと心が死んでしまう。当てつけに書いているわけじゃない。読んでほしくない。ここに書くしか逃げ場がないから。読んでほしいとは頼んでいないから。



お医者さんは、二番目のおかあさんを避けていいと言った。
わたしは避けようと思う。

なぜなら、苦しい。
死んでしまいそうだ。
わたしが死んだら殺されたのだ。



わたしはバイトを掛け持ちもして、仕事をしているので精一杯だ。一生懸命世界にとけ込もうとしている。これ以上の負荷をかけたら死んでしまう。
わたしはそうやって、世界に譲歩している。
先生も、良くとけ込んでいると言ってくれた。
仕事を通して、よく世界と折り合いを付けていると。

このまま負荷が増えたら、死んでしまう、と言った。先生は、死なないように、避けた方が良いと言った。動物は苦手なものや嫌いなものから逃げるでしょ。逃げなければ死ぬでしょ。
だから、避けないといけない。

わたしのことを好きな人はいなくても、わたしは生きていきたい。
なぜなら、生きることはようやく楽しくなって来たからだ。
その世界にひとが誰もいなくても、わたしはその世界でもいいから、生きていたい。
世界は美しい。
その傷はまだ残っている。