♯セックスワーカーに対する暴力に反対する国際デー
セックスワーカーという言葉を、このブログ上で使い始めたのは、二年前だ。
ずいぶん長い間継続的に考えている。
わたしの考えはとても浅いとはいえ、非当事者が、自分の問題として、考えることには一定の役割があると思っている。
そう信じてないとやってられない。
セックスワークについて、肯定的な意見を書くだけで、ひどいことを言う人もいる。当事者じゃないからものを言うなということも言われる。
当事者だったら、もっとひどいことを言われるんだろうなと思う。
性差別の温床だから、セックスワークを辞めさせるべき、それをセックスワーカーに啓蒙すべきという人までいて、それを知ったときかなりのショックだった。
わたしも最初はセックスワークはいやいややっている人のイメージがあったけれど、でも、若いころから、セックスワークには興味があった。
まず、男の欲望を満たす仕事というのはどういうものかわからなかったので。
そして、最初は、「体を売る仕事」だと思っていた。
今は「サービスを売る仕事」だと分かった。
性差別はなくさないといけないけれど、それをセックスワーカーのせいにすることも、セックスワークが存在するから、女の地位が低いということも言う人がいて、それは間違っている。
男女平等になれば、セックスワーカーが差別されることもなくなるから。
性差別があるのは、セックスワーカーのせいじゃない。人によっては、セックスワーカーに、「教えよう」とする人までいるらしい。
それだって、暴力だ。
働いている人の動機がなんでも、動機や気持ちに、立ち入って、決めつけたらいけない。仕事をしている人に「それは差別されるから・差別の温床だからやめるべき」というのは、暴力になる。
わたしは塾の仕事が好きだけど、ブラックだからやめろとか、好きでやっているはずない、とか、搾取の原因になるから、とか、搾取されているんだからやめろと言われたら困る。
塾の仕事にもピンハネはある。でも、その分宣伝をしてもらったり仕事を回してもらっているから、もっとバックがほしいなとは思うものの、やめる気はない。労働条件も良いとはいけないんだろうけど、楽しいし好きだから、続けている。あっているから。
その気持ちや事情と、セックスワーカーの気持ちはきっと同じなんじゃないかと思う。
塾講師もあってはいないし、好きじゃないけど生きていくためにしている人はいるだろうし、好きでやっている人もいる。事情は様々だ。
性教育が利用者に対してなされるのは大切なことだ。みんな知っている通り、性的な正しい知識を持っている人はあまりいないから。
人によっては、相手の身体に痛覚があることを知らないような人もいる。それは、わたしだって遭遇する。
わたしは異性愛者だから、暴力を振るう人はたいてい男性だった。だから、男性についてや、社会の男性における役割について抗議するのだけど、それは男性という構造にするべきだ。
わたしに、もし、塾講師の仕事が、いかに世の中にとって迷惑で、スティグマがあるか教えられたら、とても嫌な気になる。
それは実際されたことがある。同窓会で「塾講師なんてやってるのか」と言われたのだ。ひどく自尊心が傷ついた。
塾講師だって社会的地位が低く、嫌なこと言われるのだと思った。
セックスワーカーは、もっとひどいことを言われるんだろうなと想像したら胸が痛んだ。
自分の経験からしか推しはかれないから、間違っていることもずいぶん言った。
一番学んだのは、セックスワークをしている人にもいろいろいるんだってこと。
わたしはステレオタイプを信じていた。
自由な女、性的に奔放な女、というような風に。
好きでやっているはずがない、と思っていたこともあった。
今は、いやいややっている人もいるだろうし、大まかに好きだけど出勤はめんどくさいという人もいるだろうし、楽しい仕事の時と、嫌な仕事の時がある、とか、いろいろな状況でその時の気持ちは変わるんだろうなという風に変化した。
わたしだって、教える相手によって、できる仕事は変わってくるから。
協力的な生徒は伸ばしやすいし、悲しんでいたら寄り添いたいし、勉強の意義がわからなかったら、そのことに向き合いたいと思う。いつだって、最善を尽くしたいと思っている。時間が過ぎればいいなと思っているときもある。体調もある。フルタイムの仕事についていたらと夢想するときもある。
それは、きっと、全部当てはまらないにしても、セックスワーカーも同じなんだろう、というところに、やっと、たどり着いた。
最初から分かっていればよかったのに、と思うけれど、そうじゃないから、仕方がない。
客ではないわたしが、セックスワーカーに暴力をいかに振るわないか、考えると、わたしができることは、セックスワーカーを裁かない、やめさせたいと思わない、自分の正しさを押し付けない、相手の言うことを受け止める、ということだと思う。
とにかく、素直に向き合うしかない。知らない業界だから。
わたしはセックスワークをしたくない。それはいろいろな理由があるけれど、そのことを正直に認めることと、セックスワーカーに暴力を振るいたくない気持ちを持つことは、矛盾しない。
わたしがセックスワークをしたくない、という気持ちは、会社でフルタイムで働きたくないという気持ちと同じだと、なんだか納得いくようになったので、それについて、罪悪感を感じなくなった。
無用な罪悪感が、暴走して、わたしはセックスワーカーじゃないから、考えたりものを言ったりしたらだめだ、と思っていた時期もあった。
今でも、迷ったり、間違ったことや傷つけることを言っているんじゃないか不安になる。先に謝罪したくなるんだけど、それはそれで、嫌なことだからやめたほうがいいと助言も受けた。
わたしは女だから、性的に搾取されやすい。それは社会の構造がそうなっているからだ。性的なことは一段低いと思われる。女は性的な存在だと思われる。そのことがあるから、セックスワークに興味を持つようになった。
ただ、わたしの問題だというのは、今ではそういうことじゃないと思っている。
客になる人も、働く人も、わたしの隣人で、社会を構成している。だから、わたしは考えたい。
せめて、善意からでも悪意からでも暴言を振るわないように。
もっというと、暴言を振るう人が少しでも減るように。
身体に対する暴力を振るう人が減るように。
心に対する暴力は、客じゃない人もふるうことができるから、それが少しでもなくせるように。
実は、客じゃない人の「教えてあげる」行為もぐっさり心を指すんじゃないかと思っている。
いかに、あなたは差別されているか、搾取されているか、だからやめるべきだ、なんて「教えてほしい」人なんていない。
性差別を温存する役割を担っているなんてことも、そもそも間違っているけれど、そういうことを言う人もいる。
でも、セックスワークがあるから、性差別があるんじゃなくて、性差別があるから、セックスワーカーが差別されるんだと思う。
セックスワーカーに「教えてあげる」行為は、世界の「咎」をセックスワーカーに押し付ける暴力だ。
あなたは差別されている、あなたは、性差別の温床だ、あなたは搾取されているなんて、教えられたいだろうか。
もしそうなら、他にできることがあるはずだ。
セックスワーカーに言うことよりももっとほかに。
わたしは「教えるという暴力」を減らせればと願っている。
このブログはもともと、わたしが自閉症だということを知ってから、受容するまでの過程を記述するもののつもり、生活のことを記録することで、自分の心を整理するために書いていた。
今はそれが拡張して、はたからみたら、どうしてセックスワークのことについて書くのかと思う人もいるだろうけれど、少しでも役に立ちたいという気持ちでやっている。
自閉症であることを書くと、ひどいことを言う人がいる。
それには傷つく。
自分だけでは戦えない。
だから、わたしは、自分だけじゃ戦えないことを知ってる。
それで、誰かのためにも戦いたいと思うようになった。
どうしてブログを書くのか、ひどいことを言われるのに、何も書かなかったら何も言われないのにと思って、気持ちは揺れるけれど、でも、きっと誰かに届くと信じている。
暴言には慣れない。ちゃんといつも傷つく。
同じような人が少しでも減ればいい。だから、継続的に、弱い立場の人のことを、初めは見当外れでも、でも見方だという気持ちを込めて、描き続けたいと願っている。
一番初めのころに書いた文章。