c71の一日

生活の記録

自分がここにいると叫ぶこと

恋人を作るには、自分を知ってもらうことが大事だ。
不特定多数に自分のことを知ってもらえるブログは、とても役に立つ。


男の顔は、そう大差ないのだから、体だけ作って、服をかっこよく着て、髪の毛を清潔にしていたら、だいたい嫌われない。



みんながいいと思っている相手を狙うのは、たいへんだ。
埋もれている原石がたくさんある。もちろん、男尊女卑は論外だ。自分が恵まれていないから、男尊女卑になって、女のほうが恵まれていると「女尊男卑」なんて言い出すのだろう。男尊女卑の人ほどそういう。弱音を吐きたいのに吐けないから、社会的に弱い存在で許される女がうらやましいのだろう。


実際には、弱さというのは、生きにくさにつながるので、そううらやましいものでもない。ただ、自分の境遇に気づいて、社会的構造が自分を苦しめるということに気が付きやすいという点では有利だ。けれど、女性をたたく人は、そのことに思いを至らせる前に、女性がうらやましいのだというのだろう。


女性の地位が低いと、男性も、買いたたかれてしまう。人生を奪われてしまう。


女性のほうが賃金が低くて能力があれば、高い賃金をもらっている男性は、それ以上給料をもらえることは難しいだろう。比べられてしまうからだ。だから、結局、男女の賃金が不平等なのは、男性にとっても不利なのだ。

そして、仕事以外の人生がない、というのは、やはり病んでいる。
人生は仕事以外にもたくさんの楽しみがある。苦しみも痛みもある。そこから逃げて、仕事に没頭していては、人生を味わったことにならない。
仕事というのは、決まっていることをすることだ。枠がある。どんなにクリエイティブな仕事でも、最終的にはお金をもらう、という枠に収まる。
その枠以外の、お金にならないことに価値を見出せたとき、人生が始まるといっていい。


フェミニズムという言葉が有名になって、男性にも届くようになった。パラダイムを変えて、考え方がより柔軟になったという方もいれば、フェミニズムが男のパイを奪うという人もいる。そこの境目がどこなのか、わたしはわからない。わからないなりに考えると、世界に対する好奇心の差なのだろうと思う。


現状を追認する人にとって、フェミニズムは、とても攻撃的なものに感じるだろう。好奇心が旺盛な人にとっては、フェミニズムが示す「女性の不在」という問題について考える機会が与えられたことに喜ぶだろう。



科学の発見だけでいっても、女性はのけ者にされてきた。だから、科学には女性の視点がない。
たとえば、医学だけに限っても、もし、医者の世界が男ばかりではなく女が多ければ、子宮の謎ももっと詳しく解明されているだろうし、病気ももっと治せるものが多かっただろう。女性の体のことが、あまり詳しく研究されていないのは、研究者が男だから、だという話を聞いたことがある。



女性ならではの視点、という言葉は大嫌いだけれど、弱者ならではの視点で、社会をよりよく変えることは可能だと思うし、弱者にやさしい世界は、強者にも優しい世界だ。強者もいつ弱者に落ちるのかわからないのだから、その不安を解消できる。メリットがある。


メリットデメリットで語っていい話ではないけれど、コスパとかメリットとかいう言葉でしか、心に響かない人はいるから、こういう書き方をしてみた。



現状を追認しても、生きやすいならそれでいい。だけど、社会はいつでも不完全なものだから、変えるために声を上げていかないといけない。
一人の世界が変わったとき、その人は、初めて声を上げるだろう。
声の出し方を覚えたとき、世界が具体的に変化するだろう。



自分のことを知ってもらえば、どんなニッチな趣味でも、それが違法でない限り、誰かが、興味を持ってくれる。なんだっていい。
人から何かを受け入れると、人を愛せるようになる。



愛するためには、愛されることが必要だ。ただ、愛されたことがないと、愛を受け取ろうとしても、拒絶になってしまう場合が多いのだけど。



ネットには、悪意も多いが、無償の愛もあふれている。



男尊女卑の男性も、男性に庇護されることを望む女性も、どちらも愛に飢えている。愛に飢えているから、形を求めるのだと思う。


だけど、愛を知れば、きっと変わっていくのではないかと思う。何かしらの変化が。



ありのままの自分を愛してもらうのは難しい。好かれる形に加工することはプライドが許さない人もいると思う。しかし、それは、悪い甘えだ。



自分らしさを貫きつつ、清潔にしたり、好感をもたれる服装をしたり、もしくは自分が好きな服装をして表現をすることで、人と出会える。愛してもらえる。恋愛の愛じゃなくても、愛は愛だ。

自分の意思を持って、自分の人生の責任を取ること。自分の人生の苦楽を味わうことが、生きるということだ。
責任という言葉は怖いけれど、全部自分で決めるための自由の前提だ。


助けてもらうことだってできる。助けてもらうためには、自分の強い意志が必要だ。どう生きたいのか、考えることだけは、誰にも代わってもらえない。
自分の意思を伝えないと、自分の思っていることはかなわない。
黙って、自分の都合よくなるように待つのは、手間だし、無意味だ。
自分で生きている感じがしないだろう。
人を操縦することが、良いことのように言われていた時代もあった。
女性の地位が低いころは、夫を操縦するのが賢い女だといわれていた。でも、今はそういう時代じゃない。

自分の人生をクリエイトするためには、誰かを操縦して、代わりにやってもらうことと成り立たない。
代わりにやってもらっても、やっぱり自分のしたことじゃないから。
そして、相手の人生も奪っていることになるから。
誰も幸せになれない。


自分の獲得した人間が、何かをやり遂げたとしたら、それは、自分の功績じゃなくて、相手の功績だ。
なのに、それを自慢する人がいる。
その人は自分の人生を生きていない。


ブログでも何でもいいのだけど、自己表現をして、たくさんの人に知ってもらうこと。自分がここにいると、叫ぶこと。
それが、愛を得て、飢えた魂を満たす一つの方法だと思う。