c71の一日

生活の記録

運動とナショナリズム

c71.hatenablog.com
これのブクマを読んでいると、二種類の嫌悪があるのだなと思った。

市民という言葉が「市町村」という意味の「市民」だと思っている人。
この勘違いをしている人は二度とこのブログを読まないと思うので、説明しないけれど。


もう一つは、「国民」が良い、とはっきり思っているタイプの人。
はてなブックマーク - 国民って言い方やめましょうよ、市民、って言おうよ - c71の一日


わたしは市民でも人民でも公民でも、なんなら、いっそのこと人々でもいいと思うのだけど、ある種の人たちは、「国」がどうしても大事らしい。


これってナショナリズムだ。


ナショナリズムといえば、家父長制度。家父長制度といえば男尊女卑。c71.hatenablog.com
というわけで、わたしはナショナリズムがおぞけをふるうくらい嫌いだ。
守り守られるものの関係に閉じ込めるから。人が報酬扱いされて、人扱いしないから。
守られる客体にさせられる身にもなってみろよ、と言いたくなる。


だから、国民、っておかしいんじゃないの、と言われても、「いや、日本に住んでいるから国民」「日本を守りたいから国民」「言葉狩りだ」「言い換えに意味ない」「国籍持ってたら日本人だし国民」という人たちは、ほんと、愛国なんだなーと思うし、そういう人たちが女性の人権に興味を持つとは思えないから、運動が、女性に対して排外的になるのは、当たり前なんだなと納得いった。

ここのところ、女性の人権を、マイノリティの人権と読み替えてもらいたい。
子どもでもいいし、何でもいいから。



なんだろう、想像力の欠如なのかな…。
それにしても、自分がマイノリティの部分があると思わないのかな。
そういうところを、弾圧される姿とか想像しないのかな。
わたしは愛国とかナショナリズムという言葉を聞くと自分が弾圧の対象になるんだろうなという予想しかできない。
弾圧されたくない!


c71.hatenablog.com
こういうことなのかな…。想像力するタイミングを得られるか、ってのも、頭の良さに起因するのかな…。


国民って言い方やめましょうよ、市民、って言おうよ - c71の一日

所詮言葉遊び。呼び方なんぞどうでもいい。実が伴えば国民でも市民でも公民でも人民でも何でもいい。

2015/07/16 18:45
b.hatena.ne.jp
たとえば、これなんか、何でもいいと言っているけど、言葉遊びってくさしているわけだから、何でもよくはないんでしょ…と思うのだけど。何でもいいから、変えるっていう人もいるわけだから。


やっぱり、「国」に対する帰属意識とかこだわりがあるんだなあと思った。
ナショナリズムがなぜ悪いかというと、こういう風に、攻撃的になるからだ。
わたしのことを「自分だって攻撃的じゃないか、自分で自分を保てないのか?」と思う人がいるのだろうけども。まあ、それはわたしの話だからどうでもいいんだけど。



国民って言い方やめましょうよ、市民、って言おうよ - c71の一日

居住地への帰属意識皆無だから、市民より国民の方がよっぽどいい

2015/07/16 17:21
b.hatena.ne.jp
これとか居住地に対する愛がないのだったら、それこそ、人民でも公民でもいいような。でも、国民がいいんだよね。



国って何だろうね?


単に定義されている、概念でしかないと思うのだけど。
領土だってなんだって、決めたことでしかない。


そんなことのために、命を懸けたりしたくないし、とにかく平穏に暮らしたい。
平穏に暮らすためには、ナショナリズムや愛国的な考えは、わたしにとって邪魔だ。


(というようなことを書くと国に帰れとか言われる、すげーな知性ないのかと思う)


なんで、愛国とかナショナリズムがわたしにとって邪魔かというと、わたしは無邪気に「国を守ります」と言える存在じゃないから。基本的にはナショナリズムって男の人が自分のプライドを維持するための装置だから、わたしはその報酬になれども、主体にはなれないわけ。なれないというか、なりたくはないんだけど、まあ、動機がどこを探してもない。


愛国、っていうのは、「何か犠牲にしたら何か返してくれるだろう」という期待のもとに成り立っているので(自分はそうじゃないと思っている人もいるかもしれないけど、この前別のエントリに書いたから省くとして)、だから、ミソジニストとネット右翼の相性がいいのは、なるほどと思う。



愛国という気持ちを持つことは、何々人だから、殺す、殺されるという価値観と同じ位相にある。
戦争が始まれば、人種や国や部族単位で殺し合いするのだから。
反戦と言っても、ナショナリズムの意識下での反戦だと、非常に狭い範囲の人だけしか相手にしていないし、守ることも、攻撃することに対しても、無頓着な感じがする。自分がどういう状況で誰に殺されるか、誰を殺すのか、想像すれば、こういう言葉は出ないと思う。


人の属性によって、救いたい人を選ぶというのは、結局、自分も救われない可能性を増やすことだ。子どもは足手まといだから殺す、障碍者はコストがかかるから殺す、見た目が違うから殺す、貧困だから殺すってなる。


愛国ってのは人を選別する考え方だ。

純粋な日本とか純粋な日本人を求めがちだからだ。自分たちの中から不祥事が出ると、「あいつは日本人じゃない」と切り捨てにかかる。だから自分たちは無謬だと主張する。
そして、あいつは日本人じゃないという言葉が悪口として機能してしまう。

(逮捕されるのは過激派だとか、年寄りだとか、そういう分断から始まって、「デモにはかわいい子が来る」という美醜のジャッジや、彼女たちが政治に興味を持たないはずというセクシズムな思い込みによる分断)


選別が含まれる何かは、大げさに思うかもしれないけど死に直結している。