c71の一日

生活の記録

差し出された踏み絵に心は引き裂かれる

呼びかけられれば、行きたいと思う。
呼びかけに応じられなかったら、罪悪感を感じる。


行けない理由にさまざまなものがある。
それが物理的なものだったら、助かる。
でも、そうじゃなかったら?
そのひとつに、女性差別がある。

以下のツイートに共感した。


そう、これらの差別は個人の努力によって、飲み込むことができる差別である。
飲み込むことが当たり前な差別で、それに従えば従うほど「良い子」「気のきく子」と褒められるのだ。
だから、そこで「いやだ」というのには、たいへんな抵抗に遭う。
絶対に「なんで」「どうして」「たいしたことじゃない」「皿洗いならこれからこちらもするから」という話になる。
「そういうことじゃない、ここに差別がある、差別があるところにはいられない」という言葉は相手に通じない。差別をしている自覚がないから。
だから「運動に価値がないと思うのか」「小さいことにかまうことでスピードが失われる」と言葉を投げかけられない。
これは、わたしの妄想とも言えなくて、

(以下追記します)


これは、どんな風にも読み取れるけれど、対応しない、という風にわたしは読んだ。
専念できないですかね、ということは、既に出た批判に対して、「めんどうくさい」と感じているのではないかと思ってしまった。
一秒たりとも、って、とりかたによれば、安保以外についてのことには、ってこととも取れる。
うがちすぎかもしれないけれど、でも思った。

運動体を健全に遂行させるためには、男女差別を抜きに語れないわけです。
人類の半分が女性で、女性だって意志を持って参加したいのだから。
だから、一秒たりとも、が、「セクシズムで売りを作ろう」と思っている外野について思っていることなら、心が安らぐのだけれど、そうではなく、セクシズム批判に向き合うことだったら、わたしは悲しいなと思います。
めんどくさいよね、めんどくさい。
だけど、わたしも女性差別を受けている日常がすべてめんどくさいの。
わたしが日本に行きている限り、女性差別を受けることは、生きるということと不可分で逃げられないことだから。

一秒たりとも考えたくないと言って、考えなくてすむひとは、うらやましいと思ってしまう。
わたしは、何するにも「女だから」というのがついて回るからさ。
そういうのがない、安心して加われるものがあれば良いと思う。
だから、応援はしている。
けれど、一秒たりとも、の意味によるけれど、読んだ瞬間、心がひゅんとしてしまった。




また、こうとも言っていて、素直に信じれば、セクシズムに対して、不快感を示してはいるし、自分たちは、していない、と言ってもいるように見える。


わたしは、あまり楽観的になれていない。本当に、セクシズムに対して、対策を練ったり、考えてくれていたら良いなと思う。それは本当に思う。




そして、公式にこのような声明が出た
(訂正します。公式ではありませんでした。はむはむさんというかたが発言されたことです。はむはむさんとSEALDsとの関係を確認していませんでした。
 すみませんでした)

(以下のツイートを追記します)


(追記終わり)

「たとえ性差別が理由であろうと、運動を破壊する方向の行動に意味はない」と書いてある。
わからないのは、性差別を訴えることが、運動を破壊すると。そして、その性差別を訴えることに意味はないと。そういうことを書いているように見える。
わたしが間違っていたら教えてほしい。わたしが間違っている方が良いのだから。


性差別とは、女性の権利や主体性を侵す行為である。運動体には、男も女もいる。その中の一部の人が、差別されていても仕方がないという。運動のためには仕方がないという。


差別をされるものは孤独である。差別を訴えても、気のせい、考え過ぎ、といわれるからである。
「はむはむ」さんは、運動の孤独を「動かない世の中で意義申し立てをするくらい孤独で辛いことはないから」と書いてある。その辛さが分かる人が、どうして、同じ仲間を差別し、差別されていても、運動のためになら、運動を破壊する方向の運動に意味はないと言えるのか。


そもそも、性差別に向き合うことは、運動を破壊することとイコールではない。
運動体の内部の差別を温存することは、それこそ、運動を破壊する。
そもそも、同じ目的で集った仲間に、「性差別を受け入れるか」「それとも運動体から脱退するか」を迫ることについて、心は痛まないのだろうか。正しいか、正しくないかはさておいても、仲間に対する心の動きはないのだろうか。
戦争は、人を数として扱う。心なんて邪魔者だという風に扱う。差別を温存して、差別される側に「それはたいしたことがないのだから、運動を邪魔しないでくれ」と言うことは、戦争をしたがる男たちとどこが違うのだろうか。
わたしには、同じに見える。主張している内容が逆なだけで、行動原理が同じに見える。
それは確かに強いだろう。
なにせ、アベ政権は、強い。その行動原理を取り入れているから、細かい弱いものを切り捨てているから、目的に邁進できる。
それと同じことをしたら、運動体も強くいられるのかもしれない。


けれど、わたしは女で、かつて踏み絵を差し出され、踏めといわれたから、それを看過できない。
あのとき、わたしは、「踏み絵を差し出された」ことにも気づかず、ただ、混乱していた。
仲間の「空気」に混ざれないのなら、出て行ってくれ、という空気。その根底には女性差別が遭った。
わたしにはそのことがわかっていたから、一生懸命説明したけれど、一度出された踏み絵が引っ込められることはなかった。
性差別を受け入れるか、否か。
わたしは、性差別を受け入れなかった。

今、若い人たちも同じような踏み絵を差し出される場面はあるのだろうか。
そうしたとき、「意識が低い」といわれてしまうのだろうか。
運動という動きを止めないために、犠牲になるのか、それとも、共闘できないことを甘えだと言われるのだろうか。


差別を受け入れることは屈辱だ。
それがわかっているから、運動をする人たちなのだろうに、性差別に関しては、たいしたことがないと思う人が多いらしい。
女性でも男性でも、性差別は当たり前のこと、あっても邪魔にならないこと、と思っている人が多いらしい。


戦争を止めることと、性差別を忌避すること。
これは、相反することなのだろうか。
戦争を止めたがる彼らは、なぜ、また踏み絵を差し出すのだろうか。
運動を破壊するつもりなのかという台詞を添えて。
性差別という大きな日常に浸透した差別を拒否するだけで、破壊されてしまう運動とは何だろう。
どうしてだろう。
わたしは昔から不思議だ。今も変わらないことが不思議だ。
今も、昔も、差し出された踏み絵に心は引き裂かれる。どちらを選んでも、後悔が残る。半端なプライドが、あるから、わたしはこちらを選んでしまったと、自分を責めてしまう。

そして、こんなにも悩み苦しんでも、踏み絵を差し出した側には、そもそも踏み絵の存在自体、意識にはまるでなく、テストをした覚えもないから、いくら問いつめても、ぽかんとした顔が返ってくるだけなのだ。

踏み絵を突きつけられた側は、どの選択をしても、罪悪感に苛まれる。呼びかけられたら、応じたいものだ。

もし、性差別を拒否して、運動体から弾き飛ばされたら、やるべきことをやれなかった思い、ささいなことで脱落した自分のふがいなさに苛まれる。

それとも、性差別を我慢して続けたとしたら、細部に宿る不毛さ、女であること、それに付随して期待されるその負担を誰にも分かってもらえない孤独、自分が選んだことだからこそ、逃げ場もなく、言語化できない混沌の中で、善意の人々に囲まれ続ける苦痛。

差別されることと、社会変革と、どのレベルでも同じではないものを、選ばされる苦痛。
差別されることを選んだら、運動がいつまで続くか分からないけれど、ずっと、運動体の中で差別され続ける。
社会変革に参加することをあきらめたら、自分の主体性を喪失した痛みに苦しみ続けるだろう。
差別をされている側に、「丸く納めること」を求めるのは、単に差別の追認というだけでなく、さらに差別を追加したことになる。
表向きが綺麗だったら、その構成員の苦痛はどうでも良い、という態度に心は死んでいく。


こんな二者択一を女ばかりに強いることが、すでに大きな間違いだ。
どうして、女ばかりが、踏み絵を目にしなくてはならないのだろう。
男たちは、自分が差し出したものの正体すら、知らないままだというのに。


踏み絵を差し出す側は無邪気で、なにも悪いことをしているつもりがない。簡単なことだと思っている。
世の中のために、良いことをしている。だから、自分も含めて、何かを犠牲にするのは当たり前だと思っている。
そして、自分が犠牲を払っているものだから、他の誰かの犠牲に対して、自他の区別がつかないまま、運動を破壊されることばかりを恐れる。