c71の一日

生活の記録

世界に裏切られるとき

犯罪に巻き込まれると、目の前にいる人が私を刺さないのは、たまたまだと思うようになる。
一度でも刺されると、誰もが自分を刺す機会をうかがっているように思えてくる。


世界への信頼が失われたのだ。

それと同じように、災害も、「自然と社会とは共存できる」という根拠のない信頼を壊すものだ。
災害は社会を壊すだけじゃなくて、世界への信頼、足元が揺らがないという前提で生きている私たちをぐらぐらにする。
足元が揺らいだら、どんな努力をしても水泡に帰すと感じてしまう。無駄だと。


それが世界に裏切られるということだ。


制服を盗むというのは、子どもたちの世界に対する信頼を破壊することだ。
安心して生きるという人生の最初で最も大切な宝を壊すことだ。


600もの服を盗むということは、そういうことだ。
被害総額は一枚二万円だとしても、1200万円になる。
その背後には、親御さんも、盗まれた当人の友達も、友達も、そしてそのニュースを知った人たちの「世界に対する無邪気な信頼」を壊す行為だ。
そうしたら、安全に生きるという足場をなくすと、そこから溺れないように生きることだけで精いっぱいになって、本来ならもっと豊かに気持ちを解放して体験できた機会を奪う。


制服を盗まれる側にとっては、盗む側が、制服だけでなく、他の危害を加えるかどうかもわからない。ニュースを知った人はおびえる。おびええる人もいるだろう。わたしにそれがわかるのは、わたしがおびえる側の人間だからだ。
だけど、おびえる側の人間が見えない人もたくさんいる。消費する側の人間には、自分の娯楽のほうが、子どもの心よりも大事なのだ。


テレビに出ていて、人気のある人がそれをしたということで、世界への信頼を奪われた人も多いだろう。


子どもは大人を信頼している。だから、大人の言うことを聞く。反発する。そして自分の輪郭を形成する。しかし、制服を盗むと言ことはそのプロセスを破壊するということだ。


制服を盗んだ人は、子どもたちが、育むはずの前提を壊した。
その回復は思われているよりも大変なことだ。
子どもがタフに見えるのは、「そうしないと生きられないほど弱いから」だ。
子どもは何もかも飲み込む。それは子供だからだ。
何もかも飲み込む子供たちに、毒を飲ませないようにするのは大人の責任だ。


大人に対する娯楽を提供する人が、制服を盗んだということ。そして、その人が大事にされること。
制服を盗まれたくらいで、と、言われてしまう被害者がいること。


子どもは、子どものうちは、搾取から守られないといけない。
そうしないと、世界はどんどん揺らいでいく。
子どもは宝だ。消費しても壊しても盗んでもならない宝だ。
犯罪は反社会的な行動だ。
社会を壊すのだ。
だから、罰されないといけない。