c71の一日

生活の記録

菅野完氏 noiehoie氏 に性暴力疑惑についてインタビューをした

ゴヒエツコ氏(以降G氏)および、週刊金曜日は、今もだんまりを決め込んでいる。
特に、週刊金曜日は、わたしたちに、記事の写真を与えたのにかかわらず、わたしが記事を書くことで、著作権の問題に突き当たることを承知で記事を書かせた。それなのに、連絡が取れない状態でいる。


行き詰ったので、わたしは、菅野氏に電話することにした。
菅野氏は、あれだけの炎上が起きたのにも関わらず、何も言わずにいた。その点が尊敬できると思った。


ネットリンチを計画し、人を使い捨てたG氏に比べて、何を言われても、係争中だからと沈黙を続ける菅野氏では、もしかしたら、菅野氏のほうが、信頼ができるかもしれないと思った。信頼というほど大げさなことでもない。もしかしたら、電話に出てくれるかもしれないと希望を抱いた。


わたしは、今のわけのわからない状況から、抜け出したかった。そこで、関係者である菅野氏に電話をした。
菅野氏とわたしは、政治信条が違う。違うが、対話したかった。

わたしは、菅野氏へのネットリンチに加担しただけでなく、率先して、攻撃した。

その責任と反省は常にある。


そのことを謝りたい気持ちもあった。



菅野氏は電話をかけなおしてくれた。
そして、わたしの事情を聴くと、わたしをねぎらってくれた。これから話す話は、どういう風に処理してもらっても構わない、と言って、たくさんの話をしてくれた。具合が悪いと言って、様々なうそをつき、人の名前を利用した挙句、電話に出ないG氏や、いつかけても担当者が席をはずしているという週刊金曜日の対応に、慣れてしまっていたわたしは、それだけでも人間扱いされたことに感動した。


わたしは、ネットリンチに参加してしまったことを謝罪し、その後、菅野氏側からの話を聞いた。
それが、以下に記すことである。



係争中なので、何が起きたかは話せない。
二次被害を防ぎ、G氏を傷つけないために、謝るために事実関係については、争わない。


その方針でいるそうだ。


菅野氏は、最初、朝日新聞と、毎日新聞に広告を載せる運動を一人でしていた。
その後、反原発連に入って、運動をする。
そのときに、G氏が被害を運動に訴えた。


菅野氏が強調していたことは、運動体は、「性被害のもみ消し」をしていなかった、ということだ。
G氏が運営に申し立てたのち、その情報は、共有された。
中島氏や、山口氏、G氏が言うこととは違って、もみ消しはなく、問題は共有されたそうだ。
そして、菅野氏は、自分から、運動をやめた。そして、反原発連から自分から去ったということだ。
彼が何度も言っていたのは、実際に彼女が傷ついたことが、重要だということだった。


菅野氏は、その後、反レイシズム運動に参加した。反原発連の人々と、重なる人々が多かったため、その時点でも、情報共有はあったそうだ。反レイシズム運動にも、菅野氏を訴えた人がいると、菅野氏は様々な場所で聞いたそうだ。


わたしの考えでは、それはG氏ではないのか、と思う。今も、菅野氏にしていること、グループチャットで、菅野氏に「(社会的にとどめを)刺す!」と言っていたこと、ネットリンチを計画したことを考えると、菅野氏の居場所をなくそうとしていた可能性はある。


ただ、もし異なる運動体に対して、訴えたとしたら、被害のあった組織だけではなく、違う組織に訴えるのがおかしいことだ。反原発連で起きた問題を、反レイシズム運動の運営に訴えることはおかしいのではないか。


わたしは、菅野氏の行く先々で、G氏が訴えていくのはおかしいのではないか、と思う。


この件は、運動体での紋切り型の批判に使われたということだ。


わたし自身もそうだが、わたしがG氏を追及する記事を書いた時にも、紋切り型の批判があった。
アウティング、セカンドレイパー、著作権違反など。
最初から受けなければよかったのではないか、被害者がせっかく上げた声を無価値にするのか、というような。


2012年に事件が起きた。2015年に民事訴訟が起きた。その間の三年間に、二回、菅野氏は謝罪文を書いている。

G氏が傷ついたのは確かだから、そこについて争うと、二次加害になるため、事件について認める方針でいるから、謝罪文を書いたそうだ。

しかし、そのときは、「名前がある」という理由で受け取らなかったそうだ。名前というのは、菅野氏の名前と、G氏の名前がある、ということだ。


その後二年間連絡がなかった、ということだ。
2014年に、菅野氏は入院退院を繰り返していた。そのときに、菅野氏は謝罪文を書いた。
G氏の両親の友人一人と、G氏本人の友人二人で、貸し会議室で会ったそうだ。その隣の部屋には、G氏がいた。


菅野氏は、三人の前で謝罪文を書いた。隣の部屋にいたG氏は、それに目を通したうえで、菅野氏はハンコを押したそうだ。それが、2014年の夏の出来事だという。ハンコを押したということは、本人が謝罪内容に納得したのだと、菅野氏は思い、これで終わったと思ったと言っていた。


しかし、2014年年末から15年の間、つまり冬に、G氏の両親と兄から、連名の手紙が菅野氏に届く。


許さないという内容だった。菅野氏の言論活動を停止し、ツイッターをやめることを求めてきた。
そして、G氏を特定しない形で、謝罪の手紙を書くことを要求してきた。


菅野氏は、謝るのは、G氏に対してだからという理由と、ネットに公開するつもりがあるのだと感じ、それを拒否した。つまり、G氏の名前が載っている謝罪文だと、不都合があるから、特定しない謝罪文を求めてきたのではないか、ということだ。


2015年春三月に、G氏の弁護士から手紙が来た。
損害賠償、つまり、お金の請求と、言論停止、公開謝罪文を要求してきたとのことだ。



私見になるが、性暴力被害者にとって、暴力をふるった加害者が、表舞台に立っていることは苦痛がある。
でも、それをやめさせることは、筋が違うから、できないのではないか、と思う。



ここでも、菅野氏は事実関係を争わなかった。G氏に対して、謝りたかったからだとのことだった。


菅野氏の条件は、言論停止、公開謝罪文については拒否するが、その代わり、お金は満額払うということだった。


弁護士同士の話は、キャッチボールのように、どんどん進んでいくものだが、G氏の弁護士の対応が少しずつ遅延していったそうだ。そして、2015年夏にG氏の弁護士が辞任した。




後任の弁護士が、全く同じ内容の、損害賠償、公開謝罪、言論停止を求めてきた。

民事事件の時効がぎりぎりになってきたため、今度は話し合いではなく、裁判になった。


もちろん、訴えたのはG氏である。


そういう事情のため、菅野氏は、係争に関して、沈黙を続けているのだそうだ。


その話を聞いて、わたしが率直に思ったことは、菅野氏のほうが筋が通っているということだ。
まず、G氏と違って、電話に出てくれ、対話に応じてくれた。
係争にかかわる話は申し訳ないができない、と言いつつも、できる限りの事情を話してくれた。
筋が通っていたので、うそを感じなかった。


菅野氏が語ったことが、本当かどうか、わたしには確かめるすべはない。
しかし、G氏や支援者は、わたしを罵倒し、連絡を絶つ、という形で、わたしやわたしの仲間を使い捨てにした。


余談だが、わたしがG氏から受けた暴言や、書いている間のつらい状況について、菅野氏は同情し、体を治してくださいと言ってくれた。自己評価が低いから、マイノリティに憑依できるんですね、という発言があったことを話したら、そのひどさも理解してもらえた。どこがひどい発言なのか、わからない人も多かったのに。

それはたいへんでしたねとも言ってくれた。G氏がそんなことを言ってくれたことも、わたしの事情をおもんばかってくれたこともなかった。


わたしは、係争中にもかかわらず、ネットリンチをたくらんだG氏よりも、沈黙を続け、二次加害を避けようとする菅野氏に好感を持った。
裁判中に、私刑をすることは、裁判を否定することだ。
それだけでも、G氏は筋が通っていない。
一方、係争中の間、それについて、何も語らない菅野氏には筋が通っている。

ネットリンチに加担したことを謝ったところ、謝ることはないです、お気持ちだけでもうれしいと言ってもらった。
わたしはいくら恨まれても仕方がないことをしたと思っていたから、意外に感じ、ありがたいと思った。
こうして、対話に応じてくれたことにも感謝している。


わたしは、どうすればいいのか、わからなかった。わたしにすべての責任を負わせ、わたしのつらさや苦しさを理解しないまま、だんまりを決め込んで、わたしがあきらめるのを待つG氏たちのことをずっと考えていた。
そこには、出口がなかった。


菅野氏が対話に応じてくれていただいたことで、少し、何か気持ちが落ち着いた。


わたしには、事実関係はわからない。もちろん、菅野氏がうそを言っている可能性はある。でも、話を聞かせてもらって、本当にありがたいと思った。わたしには何もわからなかったから。G氏のいうことは、うそが多く、どれを信じて、どれを疑えばいいのか、わからない状態だったから、週刊金曜日も含めて、対話に応じてもらえないことがつらかった。


政治信条が違うものの、菅野氏に、人間として扱ってもらったことに、救われた部分がある。


書いたものを、事前にチェックしてください、と言ったら、あなたも文筆でたつきを立てているのだから、好きに書いてくださいと言ってくれた。わたしはアマチュアなんですよ、と訂正した。
G氏には、何度も書き直しをさせられたのですよ、と言ったら、好きに書けなかったのは、つらかったでしょうと言われた。


菅野氏がおっしゃっていることが事実だとすると、謝罪文を読んでから、ハンコを押した時点で、話は終わっているのではないかと思った。
また、裁判を起こしている最中に、ネットリンチを計画する、というのはやはりおかしいのではないかと。

わたしは、この一連の中で、初めて、わたしを人間扱いしてくれる人に出会った。わたしは人間扱いされたかったのだ。
もしかしたら、これが落としどころ、着地点になるのかもしれない。



快く、電話に出て、話を聞かせてくださった、菅野氏に感謝したい。



続き
菅野氏と話したり、、いろいろな人と会ったりしてわかってきたことについて書きました。
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正しいこと、正しくないこと

わたしは週刊金曜日の件で正しくないことをたくさんした。

そのひとつは、支援者の一人である、濁山ディグ太郎をいちびる記事を書いたことだ。

週刊金曜日の件はだれもがだんまりを決め込み、無視して、わたしが諦めるのを待っていて、わたしにとっては全然終息していない。


わたしは、濁山ディグ太郎も、被害者氏のことも何も知らない。十六日に、記事を書くとき、初めてグループチャットで話した。


そのとき、初めて話したのに、被害を打ち明けられ、記事を書くことを求められた。


わたしが書く予定だったのは、簡単な紹介記事のつもりだったけれど、被害者が、それ以上のことを望んだ。


わたしは、自分がしてほしかったこと、つまり、被害者に寄り添うことをしたかった。

だから、言われるまま、注文に応じた。

わたしの事情の中では、断ることが難しかった。


性暴力サバイバーだから、性暴力に遭った人をむげに扱うという選択肢がなかった。それがわたしの弱味だから。



記事を書いたあと、暴言を吐かれ、それについて、いくら、対応を求めても、黙殺され、のれんに腕押しなので、それぞれの人物について、調べた。

いろいろわかった。


他の人には無意味に見えるだろうし、のれんに腕押しならば馬鹿馬鹿しくなって、諦めるという選択肢もあるのだろうし、関わるのがいやならやめたら、という意見があるのも知っている。

あれを暴言だと受け取らない人もいる。なぜ、わたしが、怒っているのかわからない人もいる。

誉めてもらった、すごいと言われた、ならいいじゃん、という人もいた。


でも、大事なのはわたしの感じ方だ。

そして、わたしの気がすむことが大事だ。


わたしはひどいことをされたと思っている。

だから、ひどいことをしてきた人を今後の参考のために知りたかった。さけることができるようになるために。



それで、唯一反応のある、濁山ディグ太郎を揺さぶってみた。
反応といっても、話し合いに応じるということではなく、ブログを閉鎖モードにする程度のことだ。


でも、わたしが何か書くことで、読んでいることがわかるから、調べた。


調べたことは本人がオープンにしていたことだから、違法性はない。違法性がなくても、倫理的に問題があると考える人がいるのも知っている。


でも、わたしの感じ方を優先すると、先に倫理を放棄したのは、被害者側なのだ。

だから、わたしは自分が狂わないようにするために、正しくないことをした。

わたしが狂うと、パートナーは悲しむ。

だからふざけ半分でも何かして気をまぎらわせたかった。


ふざけて扱ったから、わたしへの信頼やイメージを失ったり、わたしがそんな人間なのだとがっかりしたり、心配するのをやめようと思う人だっているだろう。


それがわかっていても、わたしは調べて、ネタにしたかった。


相手に嫌な思いをさせて、わたしの苦しみを知らしめたかった。


彼らはわかろうとしないから、されて嫌なことを避けるために、話し合ってくれる可能性が少しでもあればと思った。



わたしは全然正しくない。
でも、わたしなりに、生きていかないといけない。


わたしのなかにたまった苦しみを解放したかった。



濁山ディグ太郎を調べて、揺さぶったことで、少し気がすんだ。



どのみち、話し合っても、わたしの怒りを理解してくれるような度量がない人々なのはわかっていた。


それでも、わたしは自分の落としどころとして、気がすむ、という状態になりたかった。


正しい、正しくないというジャッジは他の人が言えばいい。わたしがわたしをジャッジすることも、他の人がわたしに正しさを説くことも受け入れがたかった。



相手は正しさを放棄して、考えることをやめている。

同じところまで落ちなければ、わたしは納得できなかった。



みなさんには意味不明な行動でも、あきれられても、わたしには意味があった。


わたしだけでも、わたしのことを尊重しなければ、わたしは生きていけない。



生きるために、何もかも放り出した。


わたしには全然余裕がない。


正しいことも正しくないことも、その境目も、他の誰かに任せたい。


わたしの体を生かすためのことを、だれも代わりにできない。


だから、わたしは間違っていることでもした。



最初に、正しくない対応をとられたから、わたしが正しさをキープすることが、不毛に思えた。



そのことは、うまく説明できなかった。


わたしがバカなことをするのは、わたしにとって、生きるために必要なことだ。


見逃してほしい、放っておいてほしい。


心配しているひとは、はらはらするだろう。

でも、心配もやっぱり自分のためにするものだから、わたしがその期待に応える必然も余裕もないのだった。



だから、昨日、皆さんにとって、意味不明な、濁山ディグ太郎についての記事をリンクした。



皆さんに意味不明であっても、わたしには必要だった。



わたしを、正しいか正しくないか裁く前に、傷ついてボロボロの人に、どこまで要求できるのか、少し待ってほしい。


いや、待たなくてもいい。

あとで後悔するよと、先回りして、わたしを縛らないで。

わたしには先がない。

今だけだ。


怒っていたら何をいってもいいのかとか、つらかったら、酔っていたら、とか言われたけれど、わたしのラインはわたしが決める。

わたしから失敗を奪わないで。

先回りして正しさを説かないで。
ひどいことを言うと、あとから後悔するのは自分だと言わないで。

わたしは今精一杯だ。

大袈裟だと言われるが、わたしは生きていたい。





わたしが一人で生きていくだけだ。
わたしは期待に応えられない。
それだけのことだ。

陰謀の渦は去り、取り残されたままのわたしがいる #週刊金曜日

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もしこれが、釘を指す目的なら、消せと言うだろう。
だから、引用の範囲だと認めたのだと解釈した。
要するに、消せと言われなかったから、向こうの意思は黙認ということだと思った。おおっぴらに認められないから、本心では記事で拡散してほしいけれど、黙認という形をとったのではないかと。

実際に、金曜日の「上の人」から、週刊金曜日の文字を記事に入れろと注文がついている。

もし、わたしの記事に問題があるのなら、会社の上層部が、わたしの記事に注文をつけることもないだろう。
週刊金曜日の文字を入れたとき、週刊金曜日の会社の総意だと思った。


業務部からのメッセージだから、会社としての公式見解だと判断した。

このDMはx氏が、編集部がわたしに伝えたいことがあるから、相互フォローになってほしいといってきたあとに、もらったものだ。f:id:c71:20160724004918p:plain




わたしが、被害者氏から、記事をもらっていることを知った上で、よこしたDMだ。

金曜日がわたしをフォローしたので、フォローし返した。
もし、これが、「婉曲的な釘さし」なのだったら、相互フォローにならないだろうし、だいたい、著作権問題で、「やんわり釘をさす」という状態があり得るのだろうか。
消してほしい、とふつう言うはず。もしくは、はてなに通報する。
ありがとうございました、留意してください、というのは、事実上、記事の紹介を認めているのも同じ。


週刊金曜日が、発売前の記事を被害者氏に与え、それをわたしに被害者氏がさらに渡したという経緯だ。


週刊金曜日とゴヒエツコ氏は密に連絡を取っていて、わたしの記事が拡散されていく様を一緒に見ていて、自分も拡散したいくらいだと言っていたと、被害者氏は、伝えてきた。


こんな風に、週刊金曜日は、発売日前の記事の掲載に対して、許可を出していた。
これは、とても悪いことだ。
普通では考えられないことだ。

ほかにも、金曜日が、記事全文をアップロードすることに賛成しているDMがある。

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わたしは普通では考えられないことの流れである陰謀に知らないうちに加担した。そして、用済みになったら、暴言を吐かれた。誰も、何が起きたのか、説明することを避けている。


今月はアクセス数が、今の時点で21万以上あった。

わたしは随分、拡散に貢献しただろう。

普段はアクセス数をあげることに、何もメリットがないから、あげる努力はしない。

でも、今回の件については、アクセス数をあげるための計画を練って、実際に行動した。

それはたいへんな労力だった。

わたしが利用されたのだと、理解したのは、菅野氏の性暴力の被害について、記事を頼まれて書いた後だ。
その次の日、なんとか、被害者氏と対話することを求めたけれど、被害者氏は、最後まで何が悪かったのかわからなかったと言っていたと、又聞きで知った。


陰謀の渦は去り、人々も飽きて、それでもわたしは傷ついたまま、同じ場所にいる。
いろいろな人がいろいろなことを言っていたが、きちんと文章を読んでくれた人は少ない。
たくさんのエントリを書いたから、全部追うのは難しいだろうとわかってはいても、わたしはずっと同じ場所にいて、同じことを訴えている。


週刊金曜日は、スクリーンショットの通り、「発売日前に掲載していただいてありがとうございます」というようなことをDMで言っていた。
自分の媒体では拡散力が少ないと自分で認めていたのだから、残念な話だ。
わたしは週刊金曜日にも、被害者氏にも、そのバックにいる誰かにも、利用されたのだな、と思う。


中島岳志氏が、週刊金曜日の編集部員だということは、後から知った。
被害者氏は、ずっと、中島さんにはお世話になっている、週刊金曜日も紹介してもらった、と言っていた。
中島氏は、発売前の記事のpdfをいろいろな人に送っていたそうだ。
職務上の倫理に触れるのではないだろうか。

週刊金曜日に、記事を書くことを求めたのは、被害者氏。被害者氏に、週刊金曜日を紹介したのは、編集部員の中島氏。中島氏は、慰安婦問題で、慰安婦の人々の気持ちを傷つける本について、賛同している。


女性の人権に興味のない人が、インスタントに、「女性の人権は大事ですよね」とアピールするための道具に使われた。
あの時点では、中島氏がどういう人か知らなかった。徒労感がある。

しかし、中島岳志氏は、慰安婦問題*1や、セクハラ問題の対応を見ると、そういったことをして、説得力のある生き方をしてきたのだろうか。
目立ったことをして、それを免罪符にして、今までのことを取り消ししたかっただけじゃないのか。
みんなの記憶を上書き保存しただけだったのではないか、という疑問がわく。


性暴力を扱うのに、ふさわしい人間だとは思えない。
このことに力を貸すことで、自分の立場を有利にするために、被害者氏の被害を利用したのではないだろうか。


また、被害者氏は、自分自身の力がないことを隠して、その代わりに、ほとんど面識のない人たちの名前を利用して、自分を飾り立て、価値をかさ上げしていた。「こんな有名人が賛同しているのですよ」ということをしていた。

今日、確認したら、協力者や賛同者として名前を挙げられていたある人は、全然そのことも知らなかった。前からこの人にも相談していました、と言われたので、相談されていましたか、と聞いたら、何の話?と聞かれた。



刑事訴訟をしているときに、ネットリンチを企てることは悪いことだ。わたしはそれに参加してしまった。悪いことだ。
でも、性暴力被害を世の中に訴えたい、といきなり秘密を打ち明けられたら、断るのは難しかった。

被害者氏が、xさんに出したメールでは

私本人は身の安全のためこの記事自体に触れない、となってますが、

と書かれているが、協力した人々の安全をどう考えているのか、と思わざるを得ない。
刑事訴訟は、「リンチはしません」という宣言に他ならない。法の中で決着をつけることを望みながら、その一方で、ネットリンチを企てることは、矛盾している。
そして、法律の意図から外れている。

今考えたら、刑事訴訟で十分だ。そのあと、どこでベタ記事で取り上げてもらって、その記事をソースに拡散してもらうことだってできたはずだ。
自分から、記事にしてほしいと、金曜日に頼んだのだから、被害者氏の責任は重い。
わたしは、ぼんやりしていたら、災害がぶつかってきたような気分だ。


あの日、わたしは、警察に事情を聴かれる、労基署に相談に行く、病院に行く、などのイベントがたくさんあり、性暴力のフラッシュバックに苦しみながら、三十分であの記事を書いた。
その三十分はとても苦しい時間だった。パートナーは、それを見ながらハラハラしていた。パートナーも体調を崩した。
一緒にいて、自分のことのように受け止めたら、具合が悪くなるのは普通のことだ。



三十分で書くというと、すごく簡単にできるように思われてしまう。でも、集中して書く三十分だから、わたしにとっては、苦しい作業だった。


いろいろ、制約が多かった。自分の書いたエントリなのに、ここを直せ、そこを直せと何度も言われて苦しかった。
最初にチェックしてもらったのは、直しを避けたかったためなのに。
自分のブログなのに、注文記事を書かされて、一銭ももらわず、責任だけがわたしに覆いかぶさった。
特に、記事を全文掲載してくれと頼んだのは、被害者氏自身なのに、その誹りは、わたしに集中することになった。


そして、用が済んだらいらないとばかりに、被害者やその支援者たちは、いなくなって、だんまりを決め込んだ。
週刊金曜日にも、電話をしたが、居留守をつかわれたようだ。メールもしている。返事は来ない。
無視していたら、ほとぼりが冷めると思っているのだろう。



菅野氏の性暴力について書いてから、いろいろな議論が巻き起こった。
しかし、わたしはどの流れも納得がいかなかった。みんな、自分で考えずに、ほかの人がこう思っているから、これが正しいのだろう、という流れに乗っていくように見えた。


菅野氏をたたく人がいるから、とりあえず、自分もたたく。


そのあと、被害者氏の裏工作を暴露したら、「セカンドレイプ」と言われた。「アウティングした人」とも言われた。
サバイバーをケアするのはサバイバーであるべき、という乱暴な意見もあった。
わたしが錯乱している、感情的だという意見もあった。
判断能力がない、という意見もあった。


でも、過酷な状態を想像できない人の意見に価値はない。自分以外の人の苦境に思いを馳せることができないと、この事態は理解が難しいだろう。


議論が様々に展開していった。フェミニズムの在り方、運動の在り方、そんなところまで普及していった。
そのさなかでも、わたしはずっと傷ついたまま、同じ場所にいた。


わたしは同じ場所にいたまま、どの流れに行くことも拒んで、思慮深い人が黙ることも、もしくは、自分の頭がいいと誤解しながら、わたしの被害を下敷きにしたまま、議論する人も気に入らなかった。だから、二つのエントリを書いた。


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この記事のおかげで、身動きが取れなくなった人たちがいた。
でも、わたしは、そうしたかった。人々が誰かの流れに乗ることに疑問を持って、自分で考えて、判断して、答えを持たないまま、沈黙し、会話し、間違えることを望んだ。


わたしは流れに置き去りにされていたから、流れを一つ一つ阻止した。
一つの結論を求めて流れないように。安易に結論を得て、安心できないように。


ギャラリーたちが安心できる結論に飛びつけば、わたしのことは忘れ去られる。わたしはまだ、ここにいるのに。
傷ついたまま、うずくまっている私がいるのに。


わたしは問題提起をした。わたしは怒っていたし、荒々しかった。複雑な話だから、理解することが難しかった人もたくさんいたはずだ。でも、わたしは、走りながら考えるしかなった。着地点も、自分がどうしたいかも、見えなかったけれど、とにかく、被害を明らかにしたかった。走らなければ、死んでしまうと思った。黙っていたら、黙殺されることもわかっていた。


独り相撲に見られていることも承知で、でも、わたしは、いろいろなことを拒否したかった。


運動の中の男性中心の世界の中で、そのことは改めずに、性被害を「フェミニズム的な視点を取り入れてますよ」という中島氏のポーズに使われることも、被害者氏に入れ知恵した、バックにいる誰かのことも、わたしは拒否したかった。



週刊金曜日は、自分自身がメディアなのに、自分たちの影響力が少ないことを自覚していた。悲しい話だ。
ネットでこつこつ文章を書いていて、実力があって、読んでくれる人がいれば、影響力は勝手につくのに。


わたしはいつも苦しんで、自分の中にもぐって、自分の苦しみを言語化してから、ほかの人にも汎用性のあるフォーマットに落とし込んでエントリを書く。その作業は苦しい。体力が必要だ。



菅野氏のエントリについては、被害者が関与していることが知られることを避ける、という制約と、週刊金曜日が、発売日前の記事を掲載することを認めているということを伏せる、という制約があったから、書くことが難しかった。


だから、菅野氏の性暴力のこと、運動の中の性暴力のこと、性暴力の定義、性暴力が起きた時の周りの反応について盛り込んで書いた。つらかった、と言っても、誰にも伝わらないことを承知で書くけれど、つらかった。


わたしは、淡々としているように見えるらしいし、一つ一つ丁寧に暴言に対しても返すから、強い人間だとも思われているようだ。感情がないと言われることもある。もしくは、感情的だ、だから、読むに値しないと言われることもある。


わたしはただのわたしなのに。見る人によって、わたしがどんな人間なのか、違う。それぞれが膨らませた、妄想は、わたしとは異なるのに、みんな自分自身の鏡だとは思わないで、虚像のわたしに攻撃する。もしくは、諭す。


わたしは、取り残されたまま、自分自身のケアを、自分と、パートナーとだけと二人で何とかしていかないといけない。


被害者氏は、たくさんの人を巻き込んだ。うそをついて。人の名前を使って。刑事訴訟をすることは、リンチをしませんという宣言に他ならないのだけど、それを破って、ネットリンチを企てた。
誰にも謝らずに、具合が悪いと言って、引きこもっているようだ。



わたしよりもずっと年上の彼女に、怖いから近づきたくないという扱いを受けて、とても苦しい。わたしのしたことが無意味だったのなら、それはそれでいい。でも、通すべき筋を通してほしい。そうでなければ、わたしの回復は遅くなる。
被害者氏がわたしを見捨てたのだ。もう、使えない人間だから。わたしも、被害者氏のことを早く忘れたい。もう、対話が望めないのだから。



人々は、熱いニュースに魅了されて、飛びついて、正しそうなことを言う。正しい自分が好きなのだ。
状況が一転すると、今まで言っていたことが、正しくないのかもと不安になって、また慌てふためく。
何を言葉にしたらよいのか、わからなくなって、黙っていく。


もし、わたしの被害や、わたしの仲間たちの被害に興味があるのなら、誰かがこう言っているから、こういう流れだから、こういう落としどころにしようと、勝手に決めつけるのではなくて、その流れに乗るのではなくて、自分で、間違いながら、考えてほしい。一緒に。


わたしは、誰が作った流れにも乗れない。生々しい傷があるから、動けない。動いたら、傷が開いてしまう。自分の納得のいかない、着地点を望まない。


わたしもしょっちゅう間違ったことを書いてしまう。でも、間違いながら考えることが、周縁に追いやられた問題を考えるうえで大事なことだ。議論の俎上に乗せること。



自分の主張を述べるために、私の被害を刺身のつまのように扱うことはやめてほしい。
でも、わたしや、性暴力被害者の傷に、触れないでいて、黙っていたら、それは、世間ではないことと同じになってしまう。
だから、考え続けてほしい。


あの記事を読んで、性暴力加害者に対して、憤った気持ちが本物ならば。
支援なんて、難しいことは頼まない。
ただ、自分のこととして、考えてほしい。いつ誰の身に降りかかるのかわからないことだから。
実際に、運動の中でも、ずっと起きていたことだから。


この件は、すべてが相似形だ。運動が、被害者氏を黙らせ、被害者氏が、わたしを黙らせた。
運動が、被害を利用して、自分たちの政治的正しさの主張に使い、被害者氏や、ギャラリーたちが、わたしの被害を自分たちの政治的主張の場として使った。


わたしはその相似形を壊したくて、何もかもを公にした。



考えた結果、間違ったことを言うのは、大丈夫だ。あとで、謝ればいいのだ。人を傷つけるとしても、そのあとの対話や、真摯な対応が、実際のところ、価値を決める。考えたことの価値を後ろ盾する。



わたしを一人にしないでほしい。一緒に考えてほしい。そんな風に思うことが、もはやぜいたくなのかもしれないけれど。


誰かに利用されないために、利用されたとき気づくチャンスを得るために、普段から、考えていなければ、違和感を黙殺したまま、前に進んで、その違和感の通り、大きなことが起きて、たくさんの人が苦しむ原因になるのだ。


違和感は、自分の身を助けるアラームだから、大切にしてほしい。
わたしの被害を、アラームとして、覚えておいてほしい。


なんの約束もせず、善意で、助けようとしたが、使えなくなったら暴言を吐いて、対話を拒否されたことで、わたしはずいぶん傷ついた。自分の身を守るために、いろいろなことを公にした。
普通の人は、おおごとにすることを嫌うから、わたしのように、公にする人に対して、「何か問題がある」と解釈する。
そのことは知っている。でも、わたしは、守秘義務も何も約束していない。
注文記事のように書き、影響力も利用されたけれど、対価ももらっていない。暴言を吐かれるなら、対価くらいほしかった。
最初からほしかったわけじゃなかったけど、それで納得したかった。
でも、それもなかった。
守秘義務も何もないのに「信用しています」と初めて話して、会ったこともないのに、言われ続けるのは「信用しているから、黙れ」と言い換えることが可能だ。
だから、わたしは、約束していないものを守る必要もないと思い、自分の身を守るために暴露した。


わたしはずっと今も、傷ついた場所のまま、動けない。
着地点を他人に示されても、何か言うことが無意味だと諭されても、まだずっと動けないでいる。f:id:c71:20160723162412p:plain


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*1:帝国の慰安婦という、慰安婦の被害がなかったとする本を支持する声明を出した人の一人に中島氏が名を連ねている。 www.huffingtonpost.jp

わたしたちの被害を言論や主張の場にしないでくれ

わたしの被害を、言論や主張の場にしないでくれ。
そして、ちゃんと読んでから、かかわってくれ。


心ある人は、黙り、心無い人たちの声ばかりが大きくて、わたしのところに届いてしまう。


子供のように、扱われることもごめんだ。

わたしは被害を受けたら、ファイターとして戦うことを選ぶ。
殴られたら、殴り返すのだ。
それを、いろいろ言われる筋合いがない。


DMの中でゴヒエツコ氏にいじめられたから、公開することにした。
そうじゃなかったら、密室でいじめられたとき、誰にも伝えるすべがないんじゃないか?

これは、アウンティングがどうとか、そういう問題じゃない。
わたしが、ことの経緯を明らかにできないのならば、わたしの傷はいつまでたっても回復しない。
だから、あれこれいうやつは、わたしに黙れと言って、わたしが我慢しろ、と言っているのも同じだ。



菅野氏は、右翼だし、わたしが告発したことも、揶揄される。
わたしは被害者氏の被害を今でも疑っていないよ。だから、できることはします、といった。
でも、できること以上を求められて、そのうえ暴言を吐かれたから、怒っている。
DMという手段もメールという手段もあるよ、という人もいたが、わたしは、DMでいじめられたし、メールアドレスを公開しているのに、連絡をよこさず、いつまでも、xさんに伝言を頼んでいるのは向こうだ。そして、彼らは全員、わたしのことをブロックしているから、話し合うすべはない。


そもそも、あいつらはわたしがダウンしたら用済みとばかりに、ブロックした。
対話したくても、向こう側が拒否してるのだ。


利用されるだけされて、黙れ、というのは、暴力だ。外野の暴力は、優し気な、子供に対する言葉遣いみたいなものを使っても、やっぱり暴力だ。
そして、サバイバーにサバイバーのケアをさせるべきだ、というのも暴力だ。
サバイバーに対しては、ちゃんと、そういうプログラムが用意されている。わたしも受けたことがある。


サバイバーにしか、サバイバーの気持ちがわからないというのは、うそだ。
分かろうとしない人がいる、それだけだ。


ケアを、わたしにこれ以上させないでくれ。わたしには、できない。


以下のツイートは、小さい子に話しかけるような口調で、経緯もわかっていないで、そして、要約すると黙れ、としか言っていない。
口出す資格がない。でも、言っている。
他人があれこれ、ああしろ、こうしろ、というのにはうんざりだ。

傷ついているよね、だから、黙れ、というのは、わたしの自己決定権を踏んでいる。
わたしは戦うことを決めたのだ。


自分をどう労わるのか決めるのは、わたしだ。
わたしは戦う。
他人がそれに口を出すなよ。
わけのわからない敵を勝手に作って、わたしをおびえさえるな。わたしは、被害者氏と、その支援者に暴言を言われ、その後ブロックされたから怒っているんだよ。

熱が出て、じんましんが出て、眠れない、食べられない状況の中で、頼んできたのは向こうだ。拡散してほしいと、裏工作を頼んだのだ。
あとあと、面倒になるから断ります、とは誰が言えるのだ?言える人にいは、そういう相談自体がいかないだろう。
みんな、安全圏でものを言って、自分がよく見られたいから、自分の主張を言う場にして、騒いでいる。


わたしは、弱い。
弱いけど、頑張っている。
なのに、そこで、あなたは弱い、って言われないといけないんだ。
落ち着くまで黙れってなんだよ。黙ってたらいつまでたっても、落ち着かないわ。貶められたままで、黙っていたら、回復できない。


上から目線で、「どちらも悪くない」なんて言われる筋合いはない。
被害に遭ったことはどちらもわるくないかもしれない。
でも、わたしに、被害者側がしたことは、悪い。
それを無価値にしないでくれ。ポエムみたいな口調で、わたしの被害に触るな。
自分がいいやつだと思われたいだけ、その欲望をあらわにしたいのはわかるが、それをわたしの被害を利用してするな。下種。


フェミニストを切り分けないと、フェミニストの評判が下がるとは、曲者だから、であえー、ってしたいね。
わたしは誰かに好かれるために、フェミニストなんじゃない。生きるためにフェミニストなんだ。
だから、いつでもやめられたり、嫌になったり、フェミニストに傷つけられたとか言える立場の人は特権階級なんですね、と思う。


わたしは暴走しているわけじゃない。ただ戦ってる。殴られたら、殴り返す。殴られてめそめそしていたら、もっと殴られるから。誰も、わたしのひがいにきづかないから。

安全地帯でものをいうやつは信用できない。わたしについて、とやかく言う人、正しいやり方じゃないだとか、そうじゃないとか、殴られたら一生殴られっぱなしで、めそめそ黙っていればいいよ。


わたしがことの経緯を明らかにする過程には、いろいろ、相手にチャンスを上げたんだよ。でも、だんまりだった。今でもいじめ発言をしている奴さえいる。


思慮深い人たちが、暴力をふるいたくないから黙る、というのは、正しいけれど、私の耳には、暴力的な、攻撃的な揶揄ばかりが届くようになっている。
正しいからって、優しいわけじゃない。


関係ない人たちが、暴力を大勢で振るっていくので、わたしたちや、わたしたちの被害は、小さく小さくなっていく。
言論や首長の場にして、わたしたちの痛みを無視するから、わたしたちはいまにも消え入りそうだ。


わたしたちの被害から、大きく離れたところで、みんな好きかっていう。


もっとこうしたら、これは日本会議の陰謀だ、菅野は左翼だからネトウヨじゃない、だとかね。天皇を崇拝しているのは全員右翼だから。


わたしの文章を煽情的だから読まない、という人がいるけど、読まないなら、何も言うな、と思う。
せめて、よめよ。


みんなここぞとばかりに、わたしたちを踏みつけにして、自分の主張を言う。関係ないから、便乗するなよ。
自分だけで、自分の話を盛り上げて、人に聞いてもらう力さえない屑どもよ。
一回、自分の実力について考えろ。


わたしたちに、もう、ケアさせないで。性暴力サバイバーだからと言って、ほかのサバイバーのケアはできないよ。
余裕のある人がやればいい。
わたしには、ない。むしろケアされたいよ。


わたしたちのテクストを、きちんと読まずに、誤読したまま、陰謀論に流れ込む人々は、被害のことを何も考えていない。自分のことばかり。利己的な奴ら。

team anger
ここに経緯を書いてあるから。

ログを見ればわかる。






ポエムきもいわ。小さい子に語り掛けるような口調で、敵?(誰なんだよマジで)がいるから、黙れ、とか、DM,メールを使えとか、そんなの全部やっているわ。あんたのサル知恵は当事者は全部やってるの。わかる??脳みそ使わねーからわからねーか。これって、黙れって圧力だから、言葉の暴力だよ。
そんなこともわからないのか。
そんなこともわからない人間が、誰かに助言もできないだろう。
しかも、テキスト読んでないだろう。
読まずに、助言できるあなたは何様?神様?

弱かったわたしたちがいた

わたしは、よく眠って、食べて、起きたのでずいぶんだいじょうぶになった。

分かってくれる人も増えた。


しかし、いくつか、勘違いをしている人がいる。


まず、これは陰謀ではないこと。
少なくとも、わたしはこれを何かの政治的な陰謀だと思っていない。


週刊金曜日も、被害者氏も、告発したのは、「噂になりつつも、情報がないため泣き寝入りしている女性たちがことあげできるようにするため」という大義があったためだ。


傷つきながら、週刊金曜日の記者氏も書いたようだし、被害者氏もやはり傷ついていた。それは間違いない。


ステマと書いてしまったが、購買数を増やしたい、というよりも、大きな注目を浴びて、たくさんの人に読ませたい、という善意があったと思う。陰で泣いている人たちのことを考えていたのだと思う。



(連絡をいまだにいただけないのは残念だ。そして、行き違いがあるだろうから、話し合いたいのだ)



生ログを出すなんて最低、という人がいたが、編集してある。読んでいないことがわかった。編集してあると二回も書いてあるし、読めば、編集してあることがわかるはずだ。


簡単に、ログの記録をとることができる。わたしたちは、一日かけてCSS、htmlと格闘した。
つまり、この形式だったら、誰でも編集できるということだ。
また、法の整備が追い付いていないため、最近実装された、グループチャットが私信扱いになるかどうかは、裁判を経ないとわからない。

わからないことのはずなのに、グループチャットは私信だから、公開したら違法だという人がいて、おかしく思った。
他人に違法だというには、根拠が必要なはずだ。しかし、根拠となる条文がない。判例もないはずだ。この前実装されたばかりの機能だし、ログは簡単に保存できる。


グループで話している記録が、私信なのかも不明だ。複数人で共有していることで、私信扱いされないのではないか?

何法の何条何項なの?民事なの?刑事なの?それもわかってはいないだろう。



根拠もなく、人を違法行為をしていると決めつけ、発信するのはそれもいじめだ。



読まずに、因縁をつけてくる人がいるのだなと思った。
それに、グループチャット内でいじめられた場合、公開することが許されなければ、いじめを告発することもできない。
わたしは、グループチャットでいじめを受けたから公にした。その前に、ちゃんと、連絡を取ってくれ、そうしたら出さないということも発信している。


彼らの期限に合わせていられないから、出したのだ。ちゃんと発信したのに、無視して、公開させたのは向こうの責任。


連絡が来ないことについて、わたしはとても不思議に思っている。被害者氏は本当に具合が悪いにしても、その支援者たちは、通常モードでツイッターをしている。信じて、支援者だと思っていた、被害者氏もかわいそうに。
特に、濁山ディグ太郎は、いまだにわたしを揶揄するようないじめ発言を続けている。やめてほしい。


わたしはそもそも、秘密を守る契約をしていない。だから、外野にとやかく言われる必然性もない。



わたしの属性を見て、差別発言をする人がいる。
自省を自傷だと言い換えて、「左翼のリスカ癖」と言っている。
病気の人にも、わたしにも失礼だ。右翼は、自省しないのか。そうだったら、やはり、マジョリティは幸せなことだなと思うが、わたしを傷つけないでくれと思う。




菅野氏をネトウヨに書いたことについて。
わたしの認識だと、天皇陛下、という言葉を使う人は右翼だ。左翼ではない。なんで、みんなわからないの?
ネットで活動している右翼だからネトウヨと書いた。なのに、そこで議論が巻き起こるとは思わなかった。わたしは、彼のツイートを見て、左翼だとは全く思わなかった。



わたしたちは、自省している。行き違いがあるから話し合いたいと思う。


わたしたちは弱い生き物で、すぐに間違う。だから、発言するなということも違うと思う。


わたしをセカンドレイパー、最低な女と、コメントをつけてきた人もいる。
そのコメントは、わたしを傷つけるために書いているのではないの?
わたしが性暴力被害者なのにわからないのか、となじっていたけれど、あなたはなんなの?
セカンドレイパー?サードレイパー?


あなたの意図通り、わたしの心をぐさっと刺し貫いたよ。
つまり、これで、あなたもいじめに加担できたということだ。




わたしが告発しなかったら、わたしの受けたいじめは、誰にも知られないで黙殺された。
わたしは自分自身で戦うしかなかった。


今までもそうだし、これからだってそうだ。自分が傷つけられたら、自分で戦う。
その過程で、いくらなじられたとしても、変わらない。
みんな、なじられることを恐れて、戦わない。それは、普段、傷つき、戦う者たちを、自分がなじって、貶めていることを、心のどこかで知っているからだ。もっとうまくやればよかっただの、自分なら気づいただの、後から言ってくる人は、当事者の気持ちが全然わからないのだろう。

こんな出来事に巻き込まれる度量もないのだろう。そういう人には誰も最初から相談しないから。



感情的であることと、理路を尽くすということは、両立するのだ。
多くの人は、対立概念だと思っているけれど、そうではない。


感情を貶めてはいけない。感情的な女というレッテルを貼ることもまた差別だ。

わたしは感情的に理路を尽くす。両立できる。
感情も気分も、様々な事情も、理屈を曇らせるものではないからだ。



弱かったわたしたちは、本当にみんな、助けたいと思っていたの。それだけは間違いがないの。

不安定に物語ること

いろいろなできごとがあって、ずいぶん参ってしまった。

それでも、わたしが語ろうとしつづけるのは、自分でも理由がわからない。まだ、言語化できない。


でも、他人から、「被害に遭ったら、ものを書いている場合じゃない」と言われるのは、単に「被害を語るな」という圧力に感じる。


わたしはことあげをしたいのだ。最初から、最後まで、今まで。ずっと。何が起きているのか、わたしの中で何が起きているのか。


誰も、当事者になってはいないのに、こうしたらよかった、ああしたらよかった、と後知恵で好きなことを言う。


でも、あなたは、そもそも頼まれなかったわけですよね?そういう立場にも信頼もなかったわけですよね。と返したくなる。


あとから、正解を探すことは誰にでもできる。でも、自分がその立場になると、なかなか、何が起きているのか、それがどんな陰謀を持っているのか、理解することは難しい。リアルタイムでは特に難しい。


わたしは間違っていた。でも、助けたかった。



間違いながら、生きている。



間違いを認めると、それみたことかと、間違いを認めたのだから、こいつは間違ったやつなのだから、何をしてもいい、と下げた頭を踏んでいく人が多いこともわかった。


不安定でも、コントロールできていないでも、言えばいい。言われたら傷つく。生身の人間だから。でも、口をふさぐことはできない。言わないでと頼むだけ。


その一方で、わたしの口をふさぐことは、同じく、誰にもできない。間違った判断をすることは、誰にでもある。ただ、ここまで派手に公にならないだけだ。



わたしは、もともと、自分の気持ちを書くためにブログをやっている。誰かに利用されたり、したりするためにはやっていない。腹が立てば怒るし、悲しかったら泣く。ほかの人と同じはずなのに、どうも、それはわかってもらえないことがある。



本当は、誰でも間違った判断をする。そのとき、認めて、責任を感じて、謝ることができるか、なかったことにして、自分に嘘をつくか、見なかったことにして日常を送るかの違いはあれども。




当事者にならないと、気持ちはわからない。当事者同士でも、人が違えば、気持ちがわからない。


だからこそ、不安定で恐ろしいと言われても、わたしは文章を書こう。


わたしに起きたことや、わたしの中で変わっていくことを物語っていきたい。


それがだれを傷つけても。ほかならぬ自分自身を傷つけても。


誰かのもとに届くなら。ふさがれていた口を開くきっかけになり得ればよいと願うから。

菅野完氏とゴヒエツコ etsugohiの係争中の事件についてのグループチャット

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菅野完氏と係争中の事件についてのグループチャット


簡単にことの経緯を書いておきます。

最初、電子書籍を作る仲間がいました。その仲間の一人が、あるスクショを拡散してほしいと言ってきました。

そのスクショは、週刊金曜日の発売前の記事でした。内容は、ある性暴力被害者と菅野完についての記事でした。

そのスクショを被害者のために拡散してほしい、週刊金曜日の許可も得てある、次の日の定期購読者が手にしたころにスクショが拡散できれば良い、とのことでした。

そこで、わたしたち(電子書籍の仲間たち)は、つい、手伝うことにしてしまったのでした。それは、わたしが、性暴力に遭ったばかりだということもあり、「自分が助けてほしかった時に助けてもらえなかった気持ち」をシンクロさせてしまったからです。

そのときは、まだ週刊金曜日のステマじゃないだろうか、とか、係争中の事件について、裏工作をするのはよしたほうがいいんじゃないか、とか、よく知らない相手に、秘密を漏らす人を信用しないほうがいいのではないだろうか、という疑念は誰も持っていませんでした。

そこで、わたしたちは、拡散するための紹介記事を出そうかと言いました。

しかし、被害者は、記事にスクショを貼ってほしいと言いました。

わたしたちは、被害者の考えを尊重したいと考えたので、承諾しました。

わたしたちは、計画を立てました。50000アクセスをその日の24時にさせること、スマートニュースに載せること、第2弾、第3弾と続けて、最終的にはヤフーニュースに載せること。

ツイッターのグループチャット機能を使って、被害者とやりとりしました。違和感は少しずつ生じました。なぜか、「信用できる仲間がいるので」と言って、被害者がどんどん参加者を増やしていくのです。

わたしたち、電子書籍グループはその温度差を感じながら、懸命にアクセス数を増やそうとしていました。

被害者や、その支援者たちは、「二次被害につながるから」といって、何もしません。

ただ、かかわる人が多すぎる、という違和感がありました。その割に、手を動かしているのは、初めて話し、初めて接触しただけで、信じた我々ばかりだと。

わたしは、性暴力に遭ったばかりなので、性暴力の記事を書いたことで、フラッシュバックが起き、身体に様々な症状が出ました。そのことを「命を削って書いた」と表現しました。

ですが、その支援者の一人が「おおげさだ」という旨のことを言います。

わたしは、心が折れて、グループチャットから去りました。

その後、被害者、支援者たちの暴言が続いていきます。

わたしたちは、謝罪を求めました。しかし、彼らは直接連絡を取ってきませんでした。

週刊金曜日からは、ダイレクトメールであいさつがきました。引用の範囲内で、記事の紹介をしてくださり、ありがとうございました。おかげで、社会的な大義を掲げる機運が高まったと。

わたしは、それを、直接の許可だと感じました。

わたしは、週刊金曜日を定期購読しておりません。だから、スクリーンショットを発売前に手にする機会がありません。

弁護士や編集者が、ツイッターやブログを追っている、と被害者はDMで言っています。

そして、実際に、弁護士や編集部からの注文がいくつもつき、記事は何回か修正を余儀なくされました。

わたしたち電子書籍の仲間たちは、一銭もお金をもらっていません。

菅野完氏にも個人的な恨みはありませんでした。

ただ、被害者の被害に同情し、そのように動きました。

わたしたちに悪い点がなかったとは言いません。初めて話す人間を信用したこと、個人的に恨みのない人を攻撃したこと。悪かった点はいろいろあります。ご迷惑をかけたことも反省しております。

悪かった点は、素直に謝罪したいと思います。すみませんでした。

ですが、人にものを頼んできた以上、通すべき筋はあるのではないかと思いました。わたしは、著作権に違反するマナー違反のブロガーとして記憶されます。

ご批判は覚悟で、世に経緯を問いたいと思います。

そこで、DMを編集したものをアップロードします。

グループチャットを公開することに、法的な問題はないと考えています。

グループなので、私文書には当たりませんし、誰が発言したか明確にしています。

ウェブに公開されたものだという解釈です。



菅野完氏と係争中の事件についてのグループチャット



雑談

これって、わたしたちのことかな?


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