c71の一日

生活の記録

陰謀の渦は去り、取り残されたままのわたしがいる #週刊金曜日

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もしこれが、釘を指す目的なら、消せと言うだろう。
だから、引用の範囲だと認めたのだと解釈した。
要するに、消せと言われなかったから、向こうの意思は黙認ということだと思った。おおっぴらに認められないから、本心では記事で拡散してほしいけれど、黙認という形をとったのではないかと。

実際に、金曜日の「上の人」から、週刊金曜日の文字を記事に入れろと注文がついている。

もし、わたしの記事に問題があるのなら、会社の上層部が、わたしの記事に注文をつけることもないだろう。
週刊金曜日の文字を入れたとき、週刊金曜日の会社の総意だと思った。


業務部からのメッセージだから、会社としての公式見解だと判断した。

このDMはx氏が、編集部がわたしに伝えたいことがあるから、相互フォローになってほしいといってきたあとに、もらったものだ。f:id:c71:20160724004918p:plain




わたしが、被害者氏から、記事をもらっていることを知った上で、よこしたDMだ。

金曜日がわたしをフォローしたので、フォローし返した。
もし、これが、「婉曲的な釘さし」なのだったら、相互フォローにならないだろうし、だいたい、著作権問題で、「やんわり釘をさす」という状態があり得るのだろうか。
消してほしい、とふつう言うはず。もしくは、はてなに通報する。
ありがとうございました、留意してください、というのは、事実上、記事の紹介を認めているのも同じ。


週刊金曜日が、発売前の記事を被害者氏に与え、それをわたしに被害者氏がさらに渡したという経緯だ。


週刊金曜日とゴヒエツコ氏は密に連絡を取っていて、わたしの記事が拡散されていく様を一緒に見ていて、自分も拡散したいくらいだと言っていたと、被害者氏は、伝えてきた。


こんな風に、週刊金曜日は、発売日前の記事の掲載に対して、許可を出していた。
これは、とても悪いことだ。
普通では考えられないことだ。

ほかにも、金曜日が、記事全文をアップロードすることに賛成しているDMがある。

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わたしは普通では考えられないことの流れである陰謀に知らないうちに加担した。そして、用済みになったら、暴言を吐かれた。誰も、何が起きたのか、説明することを避けている。


今月はアクセス数が、今の時点で21万以上あった。

わたしは随分、拡散に貢献しただろう。

普段はアクセス数をあげることに、何もメリットがないから、あげる努力はしない。

でも、今回の件については、アクセス数をあげるための計画を練って、実際に行動した。

それはたいへんな労力だった。

わたしが利用されたのだと、理解したのは、菅野氏の性暴力の被害について、記事を頼まれて書いた後だ。
その次の日、なんとか、被害者氏と対話することを求めたけれど、被害者氏は、最後まで何が悪かったのかわからなかったと言っていたと、又聞きで知った。


陰謀の渦は去り、人々も飽きて、それでもわたしは傷ついたまま、同じ場所にいる。
いろいろな人がいろいろなことを言っていたが、きちんと文章を読んでくれた人は少ない。
たくさんのエントリを書いたから、全部追うのは難しいだろうとわかってはいても、わたしはずっと同じ場所にいて、同じことを訴えている。


週刊金曜日は、スクリーンショットの通り、「発売日前に掲載していただいてありがとうございます」というようなことをDMで言っていた。
自分の媒体では拡散力が少ないと自分で認めていたのだから、残念な話だ。
わたしは週刊金曜日にも、被害者氏にも、そのバックにいる誰かにも、利用されたのだな、と思う。


中島岳志氏が、週刊金曜日の編集部員だということは、後から知った。
被害者氏は、ずっと、中島さんにはお世話になっている、週刊金曜日も紹介してもらった、と言っていた。
中島氏は、発売前の記事のpdfをいろいろな人に送っていたそうだ。
職務上の倫理に触れるのではないだろうか。

週刊金曜日に、記事を書くことを求めたのは、被害者氏。被害者氏に、週刊金曜日を紹介したのは、編集部員の中島氏。中島氏は、慰安婦問題で、慰安婦の人々の気持ちを傷つける本について、賛同している。


女性の人権に興味のない人が、インスタントに、「女性の人権は大事ですよね」とアピールするための道具に使われた。
あの時点では、中島氏がどういう人か知らなかった。徒労感がある。

しかし、中島岳志氏は、慰安婦問題*1や、セクハラ問題の対応を見ると、そういったことをして、説得力のある生き方をしてきたのだろうか。
目立ったことをして、それを免罪符にして、今までのことを取り消ししたかっただけじゃないのか。
みんなの記憶を上書き保存しただけだったのではないか、という疑問がわく。


性暴力を扱うのに、ふさわしい人間だとは思えない。
このことに力を貸すことで、自分の立場を有利にするために、被害者氏の被害を利用したのではないだろうか。


また、被害者氏は、自分自身の力がないことを隠して、その代わりに、ほとんど面識のない人たちの名前を利用して、自分を飾り立て、価値をかさ上げしていた。「こんな有名人が賛同しているのですよ」ということをしていた。

今日、確認したら、協力者や賛同者として名前を挙げられていたある人は、全然そのことも知らなかった。前からこの人にも相談していました、と言われたので、相談されていましたか、と聞いたら、何の話?と聞かれた。



刑事訴訟をしているときに、ネットリンチを企てることは悪いことだ。わたしはそれに参加してしまった。悪いことだ。
でも、性暴力被害を世の中に訴えたい、といきなり秘密を打ち明けられたら、断るのは難しかった。

被害者氏が、xさんに出したメールでは

私本人は身の安全のためこの記事自体に触れない、となってますが、

と書かれているが、協力した人々の安全をどう考えているのか、と思わざるを得ない。
刑事訴訟は、「リンチはしません」という宣言に他ならない。法の中で決着をつけることを望みながら、その一方で、ネットリンチを企てることは、矛盾している。
そして、法律の意図から外れている。

今考えたら、刑事訴訟で十分だ。そのあと、どこでベタ記事で取り上げてもらって、その記事をソースに拡散してもらうことだってできたはずだ。
自分から、記事にしてほしいと、金曜日に頼んだのだから、被害者氏の責任は重い。
わたしは、ぼんやりしていたら、災害がぶつかってきたような気分だ。


あの日、わたしは、警察に事情を聴かれる、労基署に相談に行く、病院に行く、などのイベントがたくさんあり、性暴力のフラッシュバックに苦しみながら、三十分であの記事を書いた。
その三十分はとても苦しい時間だった。パートナーは、それを見ながらハラハラしていた。パートナーも体調を崩した。
一緒にいて、自分のことのように受け止めたら、具合が悪くなるのは普通のことだ。



三十分で書くというと、すごく簡単にできるように思われてしまう。でも、集中して書く三十分だから、わたしにとっては、苦しい作業だった。


いろいろ、制約が多かった。自分の書いたエントリなのに、ここを直せ、そこを直せと何度も言われて苦しかった。
最初にチェックしてもらったのは、直しを避けたかったためなのに。
自分のブログなのに、注文記事を書かされて、一銭ももらわず、責任だけがわたしに覆いかぶさった。
特に、記事を全文掲載してくれと頼んだのは、被害者氏自身なのに、その誹りは、わたしに集中することになった。


そして、用が済んだらいらないとばかりに、被害者やその支援者たちは、いなくなって、だんまりを決め込んだ。
週刊金曜日にも、電話をしたが、居留守をつかわれたようだ。メールもしている。返事は来ない。
無視していたら、ほとぼりが冷めると思っているのだろう。



菅野氏の性暴力について書いてから、いろいろな議論が巻き起こった。
しかし、わたしはどの流れも納得がいかなかった。みんな、自分で考えずに、ほかの人がこう思っているから、これが正しいのだろう、という流れに乗っていくように見えた。


菅野氏をたたく人がいるから、とりあえず、自分もたたく。


そのあと、被害者氏の裏工作を暴露したら、「セカンドレイプ」と言われた。「アウティングした人」とも言われた。
サバイバーをケアするのはサバイバーであるべき、という乱暴な意見もあった。
わたしが錯乱している、感情的だという意見もあった。
判断能力がない、という意見もあった。


でも、過酷な状態を想像できない人の意見に価値はない。自分以外の人の苦境に思いを馳せることができないと、この事態は理解が難しいだろう。


議論が様々に展開していった。フェミニズムの在り方、運動の在り方、そんなところまで普及していった。
そのさなかでも、わたしはずっと傷ついたまま、同じ場所にいた。


わたしは同じ場所にいたまま、どの流れに行くことも拒んで、思慮深い人が黙ることも、もしくは、自分の頭がいいと誤解しながら、わたしの被害を下敷きにしたまま、議論する人も気に入らなかった。だから、二つのエントリを書いた。


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この記事のおかげで、身動きが取れなくなった人たちがいた。
でも、わたしは、そうしたかった。人々が誰かの流れに乗ることに疑問を持って、自分で考えて、判断して、答えを持たないまま、沈黙し、会話し、間違えることを望んだ。


わたしは流れに置き去りにされていたから、流れを一つ一つ阻止した。
一つの結論を求めて流れないように。安易に結論を得て、安心できないように。


ギャラリーたちが安心できる結論に飛びつけば、わたしのことは忘れ去られる。わたしはまだ、ここにいるのに。
傷ついたまま、うずくまっている私がいるのに。


わたしは問題提起をした。わたしは怒っていたし、荒々しかった。複雑な話だから、理解することが難しかった人もたくさんいたはずだ。でも、わたしは、走りながら考えるしかなった。着地点も、自分がどうしたいかも、見えなかったけれど、とにかく、被害を明らかにしたかった。走らなければ、死んでしまうと思った。黙っていたら、黙殺されることもわかっていた。


独り相撲に見られていることも承知で、でも、わたしは、いろいろなことを拒否したかった。


運動の中の男性中心の世界の中で、そのことは改めずに、性被害を「フェミニズム的な視点を取り入れてますよ」という中島氏のポーズに使われることも、被害者氏に入れ知恵した、バックにいる誰かのことも、わたしは拒否したかった。



週刊金曜日は、自分自身がメディアなのに、自分たちの影響力が少ないことを自覚していた。悲しい話だ。
ネットでこつこつ文章を書いていて、実力があって、読んでくれる人がいれば、影響力は勝手につくのに。


わたしはいつも苦しんで、自分の中にもぐって、自分の苦しみを言語化してから、ほかの人にも汎用性のあるフォーマットに落とし込んでエントリを書く。その作業は苦しい。体力が必要だ。



菅野氏のエントリについては、被害者が関与していることが知られることを避ける、という制約と、週刊金曜日が、発売日前の記事を掲載することを認めているということを伏せる、という制約があったから、書くことが難しかった。


だから、菅野氏の性暴力のこと、運動の中の性暴力のこと、性暴力の定義、性暴力が起きた時の周りの反応について盛り込んで書いた。つらかった、と言っても、誰にも伝わらないことを承知で書くけれど、つらかった。


わたしは、淡々としているように見えるらしいし、一つ一つ丁寧に暴言に対しても返すから、強い人間だとも思われているようだ。感情がないと言われることもある。もしくは、感情的だ、だから、読むに値しないと言われることもある。


わたしはただのわたしなのに。見る人によって、わたしがどんな人間なのか、違う。それぞれが膨らませた、妄想は、わたしとは異なるのに、みんな自分自身の鏡だとは思わないで、虚像のわたしに攻撃する。もしくは、諭す。


わたしは、取り残されたまま、自分自身のケアを、自分と、パートナーとだけと二人で何とかしていかないといけない。


被害者氏は、たくさんの人を巻き込んだ。うそをついて。人の名前を使って。刑事訴訟をすることは、リンチをしませんという宣言に他ならないのだけど、それを破って、ネットリンチを企てた。
誰にも謝らずに、具合が悪いと言って、引きこもっているようだ。



わたしよりもずっと年上の彼女に、怖いから近づきたくないという扱いを受けて、とても苦しい。わたしのしたことが無意味だったのなら、それはそれでいい。でも、通すべき筋を通してほしい。そうでなければ、わたしの回復は遅くなる。
被害者氏がわたしを見捨てたのだ。もう、使えない人間だから。わたしも、被害者氏のことを早く忘れたい。もう、対話が望めないのだから。



人々は、熱いニュースに魅了されて、飛びついて、正しそうなことを言う。正しい自分が好きなのだ。
状況が一転すると、今まで言っていたことが、正しくないのかもと不安になって、また慌てふためく。
何を言葉にしたらよいのか、わからなくなって、黙っていく。


もし、わたしの被害や、わたしの仲間たちの被害に興味があるのなら、誰かがこう言っているから、こういう流れだから、こういう落としどころにしようと、勝手に決めつけるのではなくて、その流れに乗るのではなくて、自分で、間違いながら、考えてほしい。一緒に。


わたしは、誰が作った流れにも乗れない。生々しい傷があるから、動けない。動いたら、傷が開いてしまう。自分の納得のいかない、着地点を望まない。


わたしもしょっちゅう間違ったことを書いてしまう。でも、間違いながら考えることが、周縁に追いやられた問題を考えるうえで大事なことだ。議論の俎上に乗せること。



自分の主張を述べるために、私の被害を刺身のつまのように扱うことはやめてほしい。
でも、わたしや、性暴力被害者の傷に、触れないでいて、黙っていたら、それは、世間ではないことと同じになってしまう。
だから、考え続けてほしい。


あの記事を読んで、性暴力加害者に対して、憤った気持ちが本物ならば。
支援なんて、難しいことは頼まない。
ただ、自分のこととして、考えてほしい。いつ誰の身に降りかかるのかわからないことだから。
実際に、運動の中でも、ずっと起きていたことだから。


この件は、すべてが相似形だ。運動が、被害者氏を黙らせ、被害者氏が、わたしを黙らせた。
運動が、被害を利用して、自分たちの政治的正しさの主張に使い、被害者氏や、ギャラリーたちが、わたしの被害を自分たちの政治的主張の場として使った。


わたしはその相似形を壊したくて、何もかもを公にした。



考えた結果、間違ったことを言うのは、大丈夫だ。あとで、謝ればいいのだ。人を傷つけるとしても、そのあとの対話や、真摯な対応が、実際のところ、価値を決める。考えたことの価値を後ろ盾する。



わたしを一人にしないでほしい。一緒に考えてほしい。そんな風に思うことが、もはやぜいたくなのかもしれないけれど。


誰かに利用されないために、利用されたとき気づくチャンスを得るために、普段から、考えていなければ、違和感を黙殺したまま、前に進んで、その違和感の通り、大きなことが起きて、たくさんの人が苦しむ原因になるのだ。


違和感は、自分の身を助けるアラームだから、大切にしてほしい。
わたしの被害を、アラームとして、覚えておいてほしい。


なんの約束もせず、善意で、助けようとしたが、使えなくなったら暴言を吐いて、対話を拒否されたことで、わたしはずいぶん傷ついた。自分の身を守るために、いろいろなことを公にした。
普通の人は、おおごとにすることを嫌うから、わたしのように、公にする人に対して、「何か問題がある」と解釈する。
そのことは知っている。でも、わたしは、守秘義務も何も約束していない。
注文記事のように書き、影響力も利用されたけれど、対価ももらっていない。暴言を吐かれるなら、対価くらいほしかった。
最初からほしかったわけじゃなかったけど、それで納得したかった。
でも、それもなかった。
守秘義務も何もないのに「信用しています」と初めて話して、会ったこともないのに、言われ続けるのは「信用しているから、黙れ」と言い換えることが可能だ。
だから、わたしは、約束していないものを守る必要もないと思い、自分の身を守るために暴露した。


わたしはずっと今も、傷ついた場所のまま、動けない。
着地点を他人に示されても、何か言うことが無意味だと諭されても、まだずっと動けないでいる。f:id:c71:20160723162412p:plain


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*1:帝国の慰安婦という、慰安婦の被害がなかったとする本を支持する声明を出した人の一人に中島氏が名を連ねている。 www.huffingtonpost.jp