c71の一日

生活の記録

わたしは人間扱いされたかった #週刊金曜日 #中島岳志

c71.hatenablog.com
わたしは、今も傷ついている。


わたしに対してだんまりを続けることは、わたしがいくら傷ついていても、事情がわからないため、苦しんでいても、週刊金曜日にとっても、G氏にとっても、別に大したことじゃない、という扱いを受けていることに等しい。


週刊金曜日は、発売日前の記事の写真を渡し、記事を書いたわたしにG氏を通して、あれこれ注文を付けた。
記事の写真のしたに、「上の人が気にするから」週刊金曜日の文字を入れるように言われたのが、もっとも象徴的なことだ。


週刊金曜日は黙っていれば、G氏を傷つけないでいられるかもしれないが、第三者として、働いたわたしの気持ちはどうでもいいのだろう。


しかし、わたしは週刊金曜日の沈黙は、人を傷つけないようにするためだけだとは思えない。

隠したいことがあるのだと思っている。

電話の応対からも、会社ぐるみで、事情をわかった上で、あしらおうとする姿勢を感じている。

週刊金曜日からは、業務部から、発売日前の時点で、お礼のDMが来ている。それ以降も、おかげで大義を掲げる機運ができたと、重ねて感謝の言葉が来た。
「上の人」「記者」「業務部」が少なくとも関わっている。それほど大きな会社というわけではないだろうから、わたしの記事を利用するという方針だったのは、一部の人が、というよりも、会社全体の問題だとわたしは判断している。


会社ぐるみで、わたしを利用したのだ。



週刊金曜日は、マスメディアなのだから、被害者の言い分をそのままコピーした内容の記事も書くべきではなかった。せめて、菅野氏に取材するべきだった。電話一本でも済む話だったのだから。


それを怠っている。


そして、理由はわからないけれど、わたしが利用されて傷ついているのに、わたしが個人なのをいいことに、そのまま、連絡を取らずに、黙殺しようとしている。



グループチャットのログを検証し、名前の挙がっている人に、取材したり、内容を検分すると、G氏は嘘をついていることがわかった。


どんなに好意的に解釈しようとしても、どうにも説明できない部分がある。


わたしの考えでは、一つ嘘をつく人は、どの発言でも信用がおけなくなってしまう。すべてが嘘でないにしても、わたしからみると、すべてが嘘だと疑ってかからないといけなくなる。


みんな、性暴力被害者、というだけで目が曇っているけれど、性暴力被害者になったとたん、人格が変わって、嘘つきに変貌するなんてことはない。
性暴力被害者になったから、嘘つきになったのではなく、もともと、嘘つきだったのが、性暴力被害者だからといって、より甘く見られて、嘘の際限がなくなった、というところだと思う。

性暴力被害者だから、他人を利用したり、利用した後、いらないとばかり、ごみのように扱ったりしてもいいわけではない。
通すべき筋は通せる。
それは、わたしが強い性暴力被害者だから、というわけじゃない。
ただ、性暴力を受けて、どれだけ弱っていたとしても、もともと嘘つきでなければ、嘘をついたり、自分のためにネットリンチを計画したりする発想が出ないだろうということだ。もともと、そういう人なのだ。


週刊金曜日のしたことを、一部の人がしたことだと考えたい人もいるようだけれど、それは違う。
証拠は何もないけれど、週刊金曜日に言われて、わたしは記事を何度も直した。週刊金曜日の都合の良い形の記事を書かされた。わたしの知っている限り、週刊金曜日の上層部、業務部、記者が関わっている。
記事は一人で書くものではないから、記者の上長も把握しているだろう。


それに記者一人で、記事の写真を配ったり、中島氏が記事のpdfを定期購読の発売前に配ったりもできない。
そんなことをしたら、記者本人が首になってしまうだろう。
それを許可した人がいるはずだ。


G氏たちは、菅野氏をうんこと呼んでいた。記者は、自分の書いたゲラの原稿に、うんこ.pdfとつけていた。それを許していた人がいる。会社ぐるみで、そうしていたということだ。
自分の部下が、うんこ.pdfという名前のファイルを出してきてもそれを許していた人がいる、ということは、会社がそういう体質なのだ。


G氏は、ゲラの名前が、うんこなのだと、うれしそうに言っていた。わたしだったら、たとえ加害者が憎くても、うんこと呼ばれていたら、うれしくない。
記者が、本当に、ゲラの原稿名をうんことしていたとしたら、倫理観を疑う。
そして、それは本当なのだと思う。


記者にとって、菅野氏は加害者ではない。だから、記者が菅野氏をうんこ呼ばわりすることも、会社に提出するゲラにうんことつけることも、倫理的に悪いことだと思う。加害者になら、何をしてもいいと思うのならば、それは大間違いだ。

人には人権がある。誰にでも。

しかも、今は係争しているところで、菅野氏は二次加害を防ぐためにすべて認めると言ってはいるが、だからと言って、うんこと呼ぶことが正当化できるはずもない。


人間を、うんこと呼ぶことは、どんなときであっても許されない。
まして、係争中で、何も決まっていないのだから。


勝手に、第三者が、菅野氏をうんこと呼んで、彼の尊厳を傷つけてはならない。


わたしが記事を書くことを拒否することは難しかった。わたしは、性暴力被害者だったから、自分のしてほしかったことをした。だから、記事を書いた。


あのとき、わたしは被害者に寄り添うことを第一義にしていたから、G氏の伝言で来る言葉を拒否することは難しかった。G氏が、週刊金曜日の意に添う記事を書くことを望んでいたから。


わたしは、今、黒幕は、中島岳志だと思っている。クリティカルな証拠はない。(クリティカルな証拠はないけど、実際にこの記事を仕組んだのが中島氏だという証拠はある。これ。中島氏は、週刊金曜日の編集員で、G氏に週刊金曜日の紹介したのは中島氏だ)*1
実際に、職権乱用をして、発売日前の記事、定期購読者に届く前の時点で、pdfを配布しているし。
おそらく、G氏が接触してから、菅野氏を社会的に葬るための絵をこの時点で描いたのだろう。
なにか、スキャンダルがないか待っていて、それが来たのだから渡りに船だったのではないか。

f:id:c71:20160725175118p:plainf:id:c71:20160725175124p:plain


菅野氏の言論停止をG氏は求めている。それで得をするのは、中島氏だ。あの記事には、G氏の主張だけが書いてあり、一方的で、中立とはとても言えない。


また、中島氏は慰安婦問題でも、セクハラ問題でも、適切とは言えない行動をとってきた。

その中島氏が、この問題にコミットすることに違和感がある。

この件を利用して、自分が性暴力問題で、知見があること、運動でもきちんと女性問題にも目配りできているという、アピールをしたかったのではないか。


そして、G氏が菅野氏に求めている、言論停止が実現したとき、もっとも利益を得るのは中島氏だ。

中島氏はメディアを私物化して、自分のために使った。自分の評判をあげるために、免罪符のために、性暴力も利用している。


中島氏は、菅野氏だけでなく、菅野氏を批判する人にまで、菅野氏をとりあげるなと言っている。


普通に考えて、これは常軌を逸している。
菅野氏の言論停止が実現したら、中島氏の思惑通りになる。

わたしは、中島氏の女性差別問題のアリバイにされた。自分で書かなかったのは、彼が女性差別者だから、自分の言葉で書けなかったからだ。


だから、黒幕は中島氏だ。中島氏はこの件にコミットすることで、自分の今までしてきた女性差別を帳消しにできると踏んだのだろうし、菅野氏の言論も封殺できる。


週刊誌が中立であらねばならない、ということはないにしても、裏を取っていないということ、菅野氏に取材していないということは、たとえ、被害者を保護したいとしても、取材をしないというのは、怠慢だ。



わたしに記事を書かせたのは、G氏とその弁護士と、週刊金曜日だ。
誰もが、わたしからの連絡を拒む。何も、対話してくれない。わたしは、論破したいわけでも、抗議したいわけでもなかった。ただ、事情を知りたかっただけだ。それでもなお、対話は拒絶され続けている。



暴言のことを考えると、わたしは人間扱いされていなかった。単なる便利な道具。そして、都合が悪くなって、ケアなどの面倒ごとが持ち上がると、壊れたおもちゃのように捨てられた。


それで、わたしは、今も傷ついている。


週刊金曜日が黙っているのは、これ以上誰かを傷つけないためなのかもしれないと言っている人もいたが、その文脈だと、傷つけない人間の中に、わたしは含まれていない。残酷だ。

わたしのこの苦しさは、なかったことにされている。これ以上誰かを傷つけない、の中に、わたしは含まれていないわけだから。


わたしが記事を上げた直後に、お礼のメッセージを残せるのならば、わたしが苦しんでいるときに、私に対して、対話するべきだ。都合のよい時だけいい顔をするのは良いことではない。


わたしは、人間扱いされたい。道具ではなく。
わたしは傷ついている。人間扱いされていないから。


彼女の嘘の範囲がどれだけかわからない。でも、彼女は嘘をつくことにためらわない。わたしは、それを検証することにコストをかけたくない。だから、今では、真実がいくらあったとしても、彼女の言うことは全部嘘だと考え、行動しようと思っている。


彼女は、筋の通らない、卑劣なことをした。週刊金曜日も、まったく同じことをしている。


わたしは、人間扱いされたかった。だから、対話を望んだ。しかし、対話は行われなかった。
わたしは人間でいたい。人間扱いしてこない相手を、わたしは容赦しない。
わたしが望むのは、わたしをなかったことにしないで、きちんと、人間扱いしてもらうことだ。

*1:証拠はないって書いたら、証拠は出そうよ、と言われたので出します

忠告を聞かずに動き続けて得るものがある

一連の炎上で、忠告をしてきた人は多い。



荒れたことを書いていると、あとで自分が後悔するんじゃないか心配だとか、c71の信用を落とすんじゃないか、とか言ってきた人たちがいた。


先回りして、心配するのは、わたしの失敗を奪う行為なので、それはパターナリズムだ。
今回は、普段、パターナリズムを批判しているように見える人からも、そういう行為をされた。


忠告する人たちは、人に、こうあってほしいという自分自身の願望をぶつける。それが忠告の本質の一部だと思う。自分の利害や願望なのに、「あなたのため」と言ってくる。わざわざ、体裁を取り繕う。そして、自分を守る。
正しいことをしているという幻想を守る。


友達にも言われたが、信用なんて、生活範囲の中で十分だ。わたしのブログはわたしが全部書いている。その中で培ってきたのだから、わたしが新たに書くもので、信用を失うのも、自分の失言で後悔するのも、わたしの自由だ。


わたしはあのとき、傷ついていて、不適切なことも言った。傷ついていることを、「怒っていれば、自分に酔っていれば、何を書いてもいいと思っているのだ」という風に言われたこともあった。


傷ついていることが免罪符にならないのはその通りだとも。でも、その失言の責任だって、わたし自身が負う。後悔も、失敗もする。そして、取り返しのつかないこともあるだろう。それを含めて、わたしは文章を書いてきたし、これからも書いていく。



信用しているから書かないでほしい、信用を落とすから書かないほうがいい、というのは、ようするに、わたしに黙れということだ。
わたしは被害を受けて、傷ついたから、正常な反応をしただけなのに、酔っているだの、錯乱しているだの、怒りに我を忘れているのだの言われた。


忠告の形をとっていたけれども、そして「選択するのは最後には自分」だとも言われたけれども、それは「忠告する自分は責任を取らないけれど、あなたがやっていることはおかしいし、黙ったほうがいい」と言い換えられる。


わたしは確かに失敗した。失敗しながら、動き続けた。そのために、見えてきたことがたくさんある。
忠告通りに黙っていたら、わたしは今もぼんやりとして、具合が悪いままだっただろう。


真実を突き止めるために、動き回って、調べて、それでようやくたどり着いたことがある。


わたしを心配しながらも、見守ってくれていた人がいた。
「逃げなかった人から人が逃げることはない」「不特定多数の人がそれぞれの考えで忠告してきたように見えたが、自分の中の気持ちを大事にされてよかった」「その時その時で最善と考える動きをしたことで、失敗もあるだろうけれど、何かしらの変化が見えてくる」と言ってくださった方もいた。


「何もするな」「そのままでいろ」というのは、無意味なアドバイスで、アドバイスですらない。中身のあることを言ってほしいですよね、とおっしゃってもらった。



わたしは好きなことを書いてきた。これからもそうする。信用されるために、書いてきたわけじゃない。
自分のため、そして、誰かがもしかして、何か得られることがあれば、おまけとしてそういうことがあればいいと、考えてやってきた。


信用を落とすのが怖い人はいて、その自分の気持ちを投影してきたのではないか、と解説されて腑に落ちた。
そうだ、わたしは怖くない。信用されるために書いていないから。今までだってずっとたたかれてきた。
それが普通で、わたしには、優しい言葉も届くけれど、そうじゃない言葉の数のほうがずっと多い。だから、わたしの言葉が信用されているなど、最初から思っていなかった。


わたしは、忠告を聞かなくてよかった。忠告を聞いていたら、真実にたどり着けなかった。
心配しているのは本当なのだろうけれど、それは、心配する人の都合で、自分自身が解決しないといけないことだ。それなのに「心配」を丸投げして、何かしたような気持になっている人のことはもう知らない。関係がない。何もしてくれなかったどころか、邪魔したのだから。


わたしは乱暴な言葉も、荒っぽい言葉も使った。そうしないと、つらかった。生きていられる気がしなかった。そういう言葉を、おおげさととらえる人が多いけれど、わたしは精神的にも身体的にも弱いから、すぐに倒れてしまう。自分のために、生きるために、言葉を使った。


それを否定する人は、わたしの命を否定するのも同じことだ。わたしの都合や状況を本当に知っているのは、パートナーと、仲間しかいないのに。知らないのに、わたしに忠告して、その忠告がわたしを殺すかもしれないなんて考えもしなかったのだろう。責任を持たずに、いいことをするのは、気分がいいだろう。


わたしは誰かの気分をよくするための供物ではない。


わたしは動き続けて、良かったと思っている。
こんなわけのわからない事態に巻き込まれてつらかったけれど、誰が親身になってくれて、誰がそうじゃないのか、少しわかった。


一番大事にしないといけないのは、自分の感覚だ。
自分の気持ちは、わたしを正しいところに連れて行ってくれる。


わたしは、自分の気持ちのままに、動いた。失敗もあった。でも、生きていれば、失敗もある。失敗しながら、間違いながら、そして、間違えたときには、謝って取り返しのつかないことがあったとしても、謝って、そして、新しい場所にたどり着きたい。


失敗を恐れて、何もしない人だって、取り返しのつかない失敗や、誰かを傷つけることを避けられるわけでもない。それはおごりだ。


だったら、わたしは、動き続ける。真実を求める。

c71.hatenablog.com
c71.hatenablog.com

被害に遭えば心は揺らぐ、中立なんて不可能だ

中立っていうのは、自分の利害を守るための行為だから、褒められたことでも何でもない。
敵を作らない、という方針が、自分のメリットだからしているだけ。そのことを自覚していない人のほうが多いし、中立でいさえすれば、自分は清くいられるような妄想を抱いている人も多い。


そして、ものごとをおおごとにして、戦っている人に、それはよくないんじゃないの、と自分の手を汚さないで、ものばかり言う。口だけ出して、手を出さないのは、「中立」という態度をとる人に多い。
はっきりいって、卑怯だと思う。
人の生き方だから、どうでもいいけれど、わたしがそれを卑怯だということも、また自由だ。


わたしのことを、執着しているとか、粘着していると言っている人がいるらしい。伝聞だけどいるんだろうな、と思う。
コメントにも嫌なのが来ている。


それはそうと、被害に遭ったら、心は揺らぐ。不安定になる。その上で戦う。そうじゃなければ、泣いて、愚痴言って、何も変わらない。


不安定な過程で、いろいろ起きた。起こした。「超えてはいけないライン」を踏み越えると自分が後悔するみたいなことも言われたけれど、わたしは全然後悔していない。それにそのラインというものは、わたしが決めたものじゃない。わたしが決めたラインは違う場所にある。その設定を人にあれこれ言われるのは嫌だ。


それに、わたしはそこまで非難されるようなことを言ったか、と思う。しているかもしれないけど。具体的に指摘されていないから、それにおびえても仕方がない。自分を責めて良い時期だとも思えない。何か悪いことをしているんじゃないかと疑いながら、おびえながら暮らしたくもない。間違うこともある。それはわかってる。誰でもそうだ。なぜ、わたしばかりに皆求めて、自省をしないのか、不思議だ。私にかまう前に、自省すればいいのに。わたしに何か言う人自体が矛盾を抱えている場合が見受けられた。



中立でありたいんだろうな、と思う人からの接触もあった。情報がほしくて、話をしたけれど、収穫はなかった。中立であろうとしている人のところに、重要な情報は来ない。そうだよな、中立です、と態度で示している人に、大事なことを打ち明ける気にはなれない。



中立と言っても、その人にも利害があって、好みもあるから、「自称中立」にしかなれない。戦争に巻き込まれそうな小国なら中立を標榜するのもわかるけど、人と人の間で、どちらが正しいのかわからない、と言っているなら、一生話かけなくていいと思う。別に味方になれ、ってことじゃない。だけど、どちらが正しいのか間違っているのか、それくらいは自分で判断できるはず。むしろするべき。


「彼女にも事情が……」と言ってフォローしようとしてくる人も何人かいたけれど、その人たちだってきっと自分のことを中立だと思っていただろうし、自分はバランス感覚があると思い込んでいただろう。


そんなことを言えば、わたしにだって、事情はたくさんあるよ。
でも、中立めいた人たちは、わたしの事情をなぜか忖度しないのだった。
攻撃的に見えるわたしを強いと思い、黙り込む方を弱いと思い、弱いほうを助けなければと、善意で、わたしに言って来るのだった。
でも、わたしが強いか弱いかなんて、その人にわかるのか、という思いがある。
わたしだって、平均的な人間がそもそもいるのかどうか知らないし、実際強いのかもしれないけれど、身近な人には弱いと言われているから、人の評価なんてあてにならない。


沈黙を続けて、面倒ごとを避ける人のことは、したたかだという見方もできるけれど、自称中立の人はそこまで頭が回らない。せっかく、ついているんだから、回そうよ、頭を。使おう。じゃないとただの帽子置き場だ。


わたしだって、全体的に自分が正しいとは思っていない。正しい部分と正しくない部分もある。


だけど、不当なことをされたのは、わたしの中の事実だから、その不当さを放っておかない。わたしに降りかかった火の粉は、自分で振り払わないと、燃え尽きてしまう。



G氏は被害を訴えていたから、周りも擁護する人が多かった。わたしのしていることが、悪いと言ってきた。
でも、先に不当なことをしたのはG氏だ。それは、彼女の受けた被害とは関係がない。わたしに対して不当なことをしたのだから、わたしは彼女に対して、不当さを解消するべく働きかけた。


しかし、何も答えてもらえなかったので、自分の名誉を回復するために、経緯を明らかにした。
それをセカンドレイプだのなんだの言われても、何だっていうのだ。彼女の受けた被害と、彼女のした不当なことは、関連性がないのに。


そして、彼女がしていることは、被害者女性だから仕方がないというくせに、わたしが不当なことをされて、心が揺れると、わたしのほうにバッシングが来る。構造は同じなのに。不当なことをされてるのは同じなのに、片方は具合が悪いから仕方がないとかばわれて、わたしはバッシングされる。なんてことだ。


それを中立だと思っている人がいる。どっちもどっち、と言えば、中立だと思っている人もいる。取り持つことが中立だと思っている人もいる。どちらにも肩入れしなければ中立だと思っている人もいる。関係者全員をたたけば、中立だと思っている人がいる。


中立であれば自分が間違っていない、正しいと思っている人もいる。


どれも違うよ。



口を出す、ということは、自分の意思で発せられていることだから、まず、自分自身の味方である。その時点で、中立とは言えない。小さな国が、戦争に巻き込まれそうになって、中立です、というのは、自分の意思で発していることだから、自分のためだ。それと同じ。



どっちもどっち、という人は神様か何かか勘違いしているんだと思う。ものごとを正確に、精査して考えられていないという時点でバカ。どっちもどっちという前には、このことについてはこちらが不当で、このことに関してはあちらが不当だ、という風に細かく考えないといけない。それを放棄している時点でだめ。


関係者に肩入れしない人は、中立じゃなくて、傍観者。外野。ウォッチャー。それはそれで一つの立場であって、中立とは程遠い。


取り持とうとする人は、わたしが不当なことを受けたと訴えると、「でもあの人にも事情があるから」と言って、わたしの訴えを無効化する。それは、中立じゃない。不当なことをした側の味方だ。別にわたしに何かしたとかそういうわけじゃないけど、訴えを話すたびに、無効化されるのならば、話す価値もないし時間の無駄だと思う。だから、付き合いは絶たれる。
付き合いがない人は中立という立場にさえいられない。無関係な人だ。単なる。


中立であれば、自分が正しくて、間違っていないと思える人も間違っている。中立は、生き残るための戦略だから、ああ、生き残りたいんですね、という感じ。何から生き残るのかはわからない。知らないし、知りたくもない。
中立を望む人は、大勢の意見を気にする人だから、結局はみんなの意見に流される。いつの間にか、考えが偏っている。そのことも自覚できていない。だからバカだと思う。自分の頭で考えて、判断することを放棄している人。


生きていれば、何かを選び続けなければいけない。それは厳しい選択の連続だ。でも、それをやめて思考停止してしまえば、いざというときの瞬発力がなくなる。生きる力が失われる。


守られていて、そのままで大丈夫な人には縁がないから、そういう人はそういうまま生きていけばいいと思うけれど、自分の立場が安寧だから、わたしの状況に想像力がいかないまま、「執着している」「自分を正当化している」「錯乱している」「怒っていればなにをしてもいいのか」みたいなことをわたしに言う。


でも、それは暴力だからね。


被害に遭えば、心は揺らぐ。言葉の暴力を浴びながら、不当さと闘うのは骨が折れる。


それでも、わたしは心を揺らぐ自分でいながら、戦う。生きることは戦いだから。