c71の一日

生活の記録

人生は戦いの連続だ

虐待と幸福と経験の空白と

このエントリと関係があるような、ないような抽象的な話を書く。


虐待されていた人も、病気だった人も、障害があった人も、つらい時期が終わったり、続くことを受け入れたり、慣れたりしたときに、「あれ、つらいことでいっぱいだったときよりもつらい?」と思う瞬間があると思う。


自分の欠落に気づいたときに、「でも、人生は続くのだ」ということが突きつけられる。
それは、「日常的に心を浸食される出来事であたまがいっぱいだったとき」よりも、つらい一面がある。
死を願って、それだけが救済だと思っていた頃は、それで良かった。
ただ耐えていくこと、そして、生き延びること、一瞬でも長く呼吸をすること。
何も考えずに時が流れていくのを待つこと。
それに集中していくこと。


だけど、そこから、余裕ができると、人生を見渡すことができる。自分が、不幸だということに、現実感を伴って気がつく。時間は、一方方向に流れて、取り返しがつかないことを痛感する。
幸福なはずだった日々は、奪われて、自分のものには決してならないのだということに気がつく。
何かで頭がいっぱいだった頃は、それを克服しさえすれば、幸せになれると思っていた。
だけど、そうじゃなく、「それ」がなくなった自分には空っぽだけが残っていたことを知ってしまう。


わたしは塾講師をはじめたとき、幸せそうな子どもがねたましかった。
火を吐くほど、許せないと思った。
わたしには、なかった生活を送っている子どもたち。何もかもに恵まれて、不平をこぼしている子どもたち。
ひりつくような、焦燥と、妬ましさを感じた。
仕事でなければ、わたしは、何かしてしまったかもしれない。


わたしは、空っぽだったけれど、人生が延々と続いているのがわかった。運が良ければ(悪ければ)、人生は続いていくと。具体的には、後一秒先にも生きているだろうし、後一分先にも生きているだろうという見通しが立ったということ。その間、わたしは何をして、何を感じて、生きていくんだろう。死ぬことは、あまりにも難しかった。あの頃思っていたよりも、死ぬことはとても難しい。
死ねば良いと信じていたのに、難しいことだった。


わたしは、一人だったので、人生を取り戻すことにした。
医者にそういうすすめを受けた。そうすることにした。わたしはなんだってできるのだ。
手始めにお金を使った。持っていたからだ。持っていなかったら使わなかっただろう。わたしは恵まれていたし、運が良かった。


最初は、何が欲しいのかわからなかった。
だから、つまらないものをたくさん買った。
喉が渇いているみたいな感じだった。復讐するように買い物をした。
だんだん、欲しいものがわかった。
わたしは自分の身を飾るものが欲しいのだ。知的に洗練されることはもういらない。わたしは、美しくなりたい。清潔な家に住みたい。ゴミのない家に住みたい。

わたしは買っては捨てて、不似合いな若い服を買っては着た。
食欲がひどくて、空っぽな時間を持て余すように、食べ続けて、ついに、これ以上太るはずがないと思っていた体重を超えた。それでも、太ることをやめられなかった。どうすればやめられるのかわからなかった。どう誤摩化しても、自分が太っていることを誤摩化すことができなくなった。コントロールできなくなった。


それでも、わたしは止まらなかった。
したくないことでも、頭に浮かんだら全部した。
お見合いもした、アルバイトの面接に行った、会社の先輩とクラシックバレエに通った、ヨガ、ピラティス、ヘルパーさんを頼むこと、本を読むこと、漫画を読むこと。逆に、テレビを見るのを一切やめた。映画を観た。旅行に行った。世界中見てみたいと思った。原付を買った。カメラを買った。街コンに行った。友だちと再会した。


太っていても、痩せていても、美しくても、醜くても、ばからしいカッコウをしていても、わたしの頭がおかしくても、賢くても、態度の変わらない人がいることも知った。わたしには、わたしの価値があるらしい。わたしの過去を知っても、知らなくても、彼らにはどうでも良いのだ。


わたしは、過去の欠損が恥ずかしい。普通の人と同じようなことができていないことが恥ずかしい。能力がないことが恥ずかしい。能力がありすぎることが恥ずかしい。異端であること、平凡であること、愚かであること、聡明であること、他人との違い、他人との共通点、それらがみんな恥ずかしくて、消え入りたかった。


それは怒りに転換した。わたしは、それで食べた。そして、より太った。



わたしは、不意に痩せ始めた。
本当に少しだけど、でも、痩せ始めた。
人と会って、話して、話しすぎたり、人の話を聞きすぎたり、やりすぎたり、足りなすぎたり、一日中眠りすぎたり、働きすぎたりしながら、少しずつ、中心を発明していった。

ああ、わたしには心地よい自分の中心があるらしい。それは、自分で決めて良いらしい。わたしが太っても痩せても、世界はあまり変わらないらしい。



そういうことがわかってきた。
わたしが泣くのも悔やむのも、別に甘えではないらしい。それは必要なことらしい。わたしは自分の欲求を、自分のできる範囲で満たして良いらしい。それは後ろめたくないらしい。



わたしは、毎日記録をつけている。
それによると、わたしは、少しずつ変わっているらしい。
頭の中の配線が、変化していっているらしい。


そこには、些細な希望があるような気がしてきた。


不幸な目にあった人は、関係のないひとに、当たり散らしても良いし、関係のないひとは、さっさと逃げて非難して良い。
お互いにお互い絡み合って、逃げ場がないほど、どろどろと生きていって良いらしい。そこから逃げても良い。その中間でも良い、自分でバランスをとっても良い。大人は自由なのだ。


それは、自分で選ぶことができる。
苦しくならないように、苦しいときにも、呼吸ができるように、お互い願いながら、重なり合わないわたしたちの人生は続いている。