c71の一日

生活の記録

誰も守ってくれないなら、自分で自分を大事にする

実際には、友だちはとても優しい。
だけど、友だちなので、わたしの人生を全部おしつけるわけにはいかないのです。
そうすると、自分で自分を大事にするというのが良いでしょう、と思うわけです。


夜中の三時に目が覚めて、ウンナナクールで下着を見ていたら、欲しくなってしまいました。
気を紛らわすためにお風呂に入りました。
入浴剤を入れました。
上がったら気分がさっぱりしました。
今まで忙しかったので、気持ちの余裕がなく、湯船につかることがなかったのですが、久しぶりに毎日湯船につかると、自分を大事にしているような気持ちになります。


子どもの頃はそういう自由がなかったです。
大人になって、一人暮らしをしている間は、そういう余裕がありませんでした。
自分を自分でコントロールする、という発想もなく、自分を居心地よくする、という気持ちが欠けていました。
今思うと、もったいないことをしたな、と思います。
もっと、自分のために生きていたらよかったです。


役に立たない、遠慮をして、でも、図々しいと思われて、理不尽でした。
最初から、図々しく振る舞っておけば、かえって、誰にも何も言われません。
そういう仕組みを知りませんでした。


わたしは迫害される側で、良かったと思います。
生存者バイアスがかかっているし、最初から拝外されない方が良いに決まっているし、わたしが良かったからと言って、他の人にも同じ目に遭うようにとも思いません。
ですが、迫害されることによって、必死で、自分とは何か、何をしたら居心地が良いのか、考えるようになりました。


わたしはとてもおぼこかったので、お金の価値を知りませんでした。
自分で自由に使うようになり、痛い目を見ることもあって、だんだんお金の自由さを知りました。
お金はわたしを遠いところまで連れて行ってくれたり、心地の良い下着や、セーターを与えてくれます。
わたしの労働と交換です。
労働の価値が認められるのもいい気持ちです。


誰も守ってくれない、という状態は、「危ないからそれはやめておきなさい」と言われなくて済む自由のことです。
「それは無駄」「もったいない」と言って、わたしの経験を、損なわない自由です。


家族がいないとさみしい、という考えがありますが、家族がいると不自由、という考えもあります。
わたしは家族に対して、自由な選択をもっていないので、家族がいない自由を大事にします。

家族がいても、孤独です。
最後は一人で死ぬことになります。
年を取って一人暮らしになる危険は、結婚してようと、子どもがいようと、直面するものです。
家族がなんとかしてくれるはずだから、家族をもとうと言う考えも不純なような気がします。
一人で生きていけるのだ、という自信もありません。
だけど、そうするしかない人生もあります。