c71の一日

生活の記録

人権侵害に言い訳はない

大橋仁氏のブログについて書く。

1月8日 | メッセージ



これについて今日は書こうと思う。

タイでは民間人がけっこう普通にピストルを持っている。民間人の拳銃所持はタイで違法なのかどうかは知らないが、店の用心棒などが拳銃を携帯している可能性は非常に高い。

だからどうしたと言うのだ。
殺される覚悟をしたら、他人の人権を侵害する資格が得られると言うのだろうか。

エネルギーに対して真ん中の真正面からぶつかる事だけを願ってゲリラ撮影に踏み切り、そのために死のリスクもいとわなかった自分が、誰の目を恐れ、盗撮や隠し撮りなどという姑息で無駄な事をする必要と理由が、一体どこにあったと言うのだろう。コソコソ隠れて行う盗撮などでは断じてない。自分は、撮影禁止場所での無許可のゲリラ撮影をその空間の真ん中の真正面で、瞬間的にだが、行ったと言う事だ。


撮影禁止の場所がたとえ、フリースペースだとしても、理由があって撮影禁止なのだ。
お金で解決して金魚鉢を貸し切りにできればそうするべきだったのだ。



これは人権侵害である。
人が人権侵害されるときはたった二つだけある。
公共の福祉の均衡を守るため。
もうひとつは、誰かの人権を侵害してしまったとき、国がその人の人権を侵害することによって、罰とすることができる。国は国民により、人権の侵害のし具合を法律で律せられている。国は国民の代理として、刑を執行する。それが国民主権と言うことだ。



表現の自由は人権の一部だから、それをもって、他人の人権を侵害することはできない。




大橋氏が、人権を侵害して良かった理由は何一つない。

殺される可能性があったとしたら、それは、人の人権を侵害していい理由になるんだろうか?



これは強姦である。
わたしはそう規定する。
手が震えるほどにそう思う。刑法上は強姦ではないかもしれない。


だけれども、彼は合法な、相手の許可のある状態では、自分の見たい絵が見られなかったと告白している。
性のエネルギー?生のエネルギー?ちゃんちゃらおかしい。



強姦をしている演技だとうまい写真が撮れないから、強姦を実際にしました、そうしたら、迫真の写真が撮れました、という告白と原理的にはなんら、変わりない。
必死で抵抗する被害者からは生のエネルギーが感じられました。
そんな、グロテスクな告白だ。

セックスとしての強姦じゃない、観念としての強姦だ。



大橋氏から見て彼女らがパニックになっているように見えなくても、写真に撮られていることに慣れているように見えても、それは、大橋氏の思いたい「都合」であって、真実じゃない。
真実は、そこが、カメラ撮影禁止の場所だった、ということだ。



彼女たちは映りたくなかったのだし、そのことを明示してあった。それを大橋氏も了解していた。
彼はなぜ客を撮らなかったのだろう?わたしにはそのことが不思議だ。


人権を侵害したかったわけじゃない、とかいてあったけれど、それならば、彼は、人権を侵害する行為になる、ということをわかってやっていたことになる。
人権を侵害したくなかったのだったら、人権を侵害しない、という選択肢があったはずだ。
なのに彼は、その当時も、今も、それを取り下げていない。
この瞬間にも、写真は公開されている。

だったら、こんな長い言い訳の文章を書く必要はなかったのではないだろうか。書きたいなら書けば良いけれど。


性のエネルギーをほとばしらせていたのは、仕事でお金のために座っている女性ではなく、性欲を満たしたいと来店した男性だったのではないのだろうか?
もしくは、写真を撮りたい、という欲をもった、自分自身の姿か。

許諾は撮らない、ゲリラ的手法、っていうのは、要するに盗撮じゃないだろうか。堂々として撮っていても撮っていなくても。
道ばたで写真を撮るなら、わたしにもわかるけれど、写真を撮っていけない場所で撮るのはいけないことなんじゃないだろうか。その安心があって、彼女たちは働いていたのだろうし、彼は、その安心を破壊したのだ。
破壊しただけじゃなく、安全な、日本で公開した。訴えられることもなく、殺される心配のない日本で。


彼が本当にカメラひとつでエネルギーの渦に飛び込みたかった、という言葉を百パーセント信じるのならば、撮ったことはまだ譲っても良い。でも、そのことと、公開することとは何の関係もないし、インタビューで、パニック状態に陥った女性がいた、ということはもっと関係がない。


彼はブログで嘘をついている。彼は写真で認められたかったのだろう。そうでなければ、話を大げさに盛る必要がないからだ。



あらゆる方角と次元から発想を巡らす事ができる人間の持つ小さな想像力と、感受性、それだけが人類最後の武器だ。


と、大橋氏は述べているが、わたしの見るところ、彼にはこれが、全くない。
小さな想像力と感受性があれば、人が傷つくことを避け、過ちに対して真摯であるだろう。
彼は謝っていない。迷惑をかけたと謝っているが、それはことの本質ではない。
彼は、謝るのだったら、自分にも命の危険があって、それを顧みずにやったのだと、勲章めいたことを語らなくて良かった。
彼に感受性と想像力があるならば、彼女たちの痛みによりそうことができただろう。傷に塩を塗ることをしたりはしなかっただろう。

わたしが思う、人間の想像力とは、人の命を守ることだ。社会とは、人が生きるために工夫した進化上のすべだ。弱いものもいつか役に立つだろうと、人間は弱いものと強いものを補い合い生きる戦略を立てた。


その戦略のひとつとして人権がある。人権とは想像力の産物だ。


人権はその人が生きるために必要なことだ。それを侵害したら、その人は生きていけなくなってしまう。生きていけなければ、「肉」そのものも存在しない。


その想像力がないひとには肉のエネルギーなんて語る資格がない。
女の体ばかりに「性」「生」のエネルギーとやらを押し付けられているのなら、そのカメラを持つ、自分自身の「男」の体はなんなのだ?


知性を捨てる、と書いてあって、確かに大橋氏は知性を捨てているのかもしれないが。
一般的に「男」「女」は知性と感情で対立させられて来た、という歴史がある。
彼はその歴史をなぞっているだけにすぎない。
わたしはそれにも反発する。


女には知性もある、人権もある。そんな当たり前のことをどうして、重ねて言わないといけないはめになるのかと、情けなくなる。


全ての人類の持つ、能力の限界の壁を前に、自分は頭の良い知的生物だと言う単なる勘違いを捨て去り、自分の肉が発するエネルギーと、他の人間との肉と肉のコミュニケーション(性交と言う意味ではない)に注目する事が出来たなら、人は自ら、その真の姿を知り、自覚する事になるだろう。自分とは。命とエネルギーの正体に近づく試みを重ねる事でこそ、今やるべき事がはっきり見えてくると自分は信じている。

この文章には何の意味もない。
勘違いを捨て去って、コミュニケーションをとったら、真の姿を知って自覚することができる?
でも、真の姿とやらのことは何も書いていない。
命とエネルギーの正体に近づく試みを重ねることでこそ、今やるべきことがはっきり見えてくると書いてあるが、今やるべきこととは何か、何も書いてない。しかも語尾が信じるで嗤う。
だったら、わたしだって、なんだって、信じるで終わらせる。

命とエネルギーの正体に近づく試みをするなら、せめて、命とエネルギーの持ち主の、人権に敬意を払ってほしい。

それが、真のコミュニケーションとなるはずだから。
それが、真の姿だから。人間の。
わたしは人間の知性を信じている。


大橋氏は「真実」から目をそらしている。今も。過去も。



追記

わたしはこの件には、人種差別、職業差別、女性差別が混ざっていて、どうしようもない状態だと思う。