c71の一日

生活の記録

口を塞ごうとするものとの戦い方を学ぶ

人権侵害に言い訳はない - c71の一日の続き


勉強をするのは、ルールを知るため。


ルールを知ったら、戦える。
趣味でも何でも楽しみ方がわかる。
お金が稼げる。


だから、人生が豊かになる。


直感だけでは理解できないことがたくさんある。直感は素晴らしい助けになるし、最後には直感をたよりに生きているけれど、たとえば野球のルールを知らなければ、直感があっても野球観戦は楽しめない。楽しむためには教養がいる。


戦うためにはルールを知らないといけない。


わたしは何でもは知らない。だから、知っていることについて書く。わからないことについては考えながら書く。


差別されているときには、人権を頼りにして戦うしかない。



人権の優先度が高い人なのね、と言われたけれど、わたしは、そうだ、その通り、人権がもっとも大切なものだと思っている。人権がなくては、わたしのよりどころになるものがない。
女だから、人権がなければ、大学にも行けなかっただろうし、人権がなかったら、働くこともできないだろう。障害があるから、差別されて当然だと言われても反論できない。何をされても文句を言えない。
人権がなければ、わたしは生きていかれない。だから、人権に対する優先度は最も高い。
人権侵害の話にも敏感になる。
法律が整備されていないときには、人権を根拠に話すしかないときもある。
だから、わたしは人権を前提に説明するのが悪いことだと思わないでいる。



女に人権がなかった頃、家長父制の元では女は財産だった。財産権も何もない。学問がなくても良いと言われていたのもそういうこと。


強姦されても、品物を傷つけただけのこと。強姦されたときに傷物になった、という言い方はここから来ている。財産としての女の価値が下がった、と言うことだから、示談は、父親と男の間でかわされる。だから、女が、そのまま、強姦した相手に嫁ぐことだってあったらしい。確かなことではないけれど。



人権が、国に対して求めるものだということはわかっている。

だけど、法律は人権に基づいてできている。だから、わかりやすくいうためには、人権があるから、この行為はいけないのです、と説明することは間違っていないと思っている。
人権を、本当に求めているわけ=裁判を起こしているわけじゃなくて、説明しているだけだから。刑法や民法が作用できるその前提として人権があるから、人権侵害をしてはいけない、という前提があって、その上で、民法も刑法も適用できるのだとわたしは理解している。


タイなどで、人権侵害があったときに、日本の法律では彼を裁けない(記憶が正しければ)。
タイの人権への法整備がどうなっているか、わたしは知らない。
だけど、不正義が行われてはいけない。
タイで、管理買春が行われていて、人権侵害が行われていることは、悲しい。
悲しいけれど、買春はすでに行われていて、女性たちの生きるすべになっている。
わたしは確かに、彼女たちが、もっと違う生き方ができる環境が整えば良いなと思う。
思うけれども何もできない。


そして、そのことと、大橋氏が、人権侵害を新たに行うことは、関係がない。
それは、彼女たちの新たな悲しみを増やすことになるからだ。
このことについて、書くことは、わたしが唯一できることだ。

わたしはタイのセックスワーカーに何もしてあげることができない。
わたしにできるのは文章を書くだけだ。
わたしは自分の生活で精一杯で、何もできない。
する気がないのだ、と責められても仕方がない。実際、そうなのだから。



感想を読むと、この人はわたしの口を塞ぎたがっているのかな、と思う人は正直に言って何人かいる。
「このことに言及していないからダメだ」と言う人がいる。たったひとつのエントリで、たったひとりの書き手に対して言う人がいて、「わたしは神様じゃないし、ひとつの話題について書いているからその他のことは知らない」と思う。


これは、女性差別と関係がないけれど、大橋氏が、写真を撮ったのは、女性差別からだと思っている。


女が差別されるとき、いろんな手法で攻撃される。
このことは言わないのか、このことは間違っている、このことは話題と違っている、などと。
わかりにくい、自分が悪い、相手と同じレベルだ、などと言われる。



口を塞ぐには、書き手を悲しい気持ちにさせるだけで十分だから、正しさは必要とされない。
文章を書くと楽しい。楽しいけれど、感想を読むのは削れる。削れる感想もあると言うこと。
わたしはそのバランスの中で文章を書こうと思う。
わたしが書きたいことを書くように、わたしに言いたいことがある人はたくさんいるわけだから、わたしはその人たちの口を塞ぐことはできない。


と、同時に、わたしはわたしの口を塞ごうとしている人に、一定期間負けて、口を塞がれることはあるだろうけれど、長期的に見て、口を塞ぐことはあり得ない。
そして、口を塞がれ続けて来た女たち、自分自身を抑圧して来たせいで、名誉男性的な価値観を内面化して生きづらい女たち、の、ためにも話し続けたい。



わたしは様々な要因で差別される。それはいやなことだ。
差別は、いろいろな形で現れる。
口を塞ごうとする。黙れと言ってくる。黙っていれば生きやすいと、ささやいてくる。



そして、同時に、様々な理由で、誰かを知らないうちに差別しているに違いない。
そんなときに、わたしは指摘されたら傷つくだろう。だけど、その傷ついた自分の心を受け止めて、そして、それから、その差別してしまった、ということに向き合える自分でありたい。
そのために、わたしは自分が差別されていると言いたい。差別されていると言い続ける困難を自分のものと引き受けたい。


差別されているわたしと、差別しているわたしは両立している。
だから、わたしは人権に敏感でいたい。
他の誰かの領域を脅かさないように生きていきたい。
失敗もたくさんあるだろうけれど、最初からうまくはできないだろうけれど、少しずつ、戦っていきたい。自分自身とも。他人とも。国とも。周りの人とも。