c71の一日

生活の記録

女にモテず二人刺す、それは家父長制の維持行為である

news.biglobe.ne.jp


女にモテず、女性二人を刺す、というニュースに、人は奇異な印象を抱くと思うが、これは、理にかなった行動なのです。


家父長制を維持することに協力していると自負のある男性は、当然、女性を獲得できると思っています。
そもそも、女性を獲得するために協力しているからです。
男性は、女性を消費物だと思い、そもそも殴るものなのに、あえて、殴らないでいるのです。それが彼らにとっての優しさなのです。(家父長制の中でのシステムとしての男性ね。おれはそうじゃない、ってことじゃなくて、仕組みがそうなので。家父長制は、暴力を基礎として成り立っている仕組みだから)


しかし、家父長制の中にいるのに、女性を獲得できなかった男性は、もちろん不満を抱きます。
そして、その矛先は、女性に向かいます。殴らないでいてやっていたのに、恩を返さないなんて。
というわけです。

彼は、女性を与えなかった家父長制に歯向かうことは思いもしません。その価値観にあまりにもどっぷり浸かっているので、家父長制の存在自体を、理解できないのです。理解するのは、少し距離が必要です。対象物と距離がないと、その正体に気がつきません。この男性は、家父長制と一体であるために、その存在が感じられないのです。女性を配布されなかったと言って、女性を憎むのはそのためです。内省のない人間が、自分自身を罰しないのと同じことです。家父長制と自分が一体です。だから、自分を責めない、と同じ理由で、国家に対して反逆しません。女性を獲得できなかった理由は、家父長制に服従していた自分にあるわけがないので、不服従な女を罰することにするでしょう。さらに、不服従な女を罰することで、家父長制に「暴力」という形で貢献できるという効果もあるわけです。
だから、この男性にとって、女性を獲得できなかったという理由で、女性を刺す=罰することは、理にかなった行為なのです。


女を罰することで、制度になんとか認められようとする行為なのです。


そうして、男性は女性を刺します。
家父長制にとっては、それは願ったりかなったりです。家父長制を維持するためには、暴力の存在が不可欠なのですから。
暴力がなければ、どうして、女性を脅して恐怖によって支配することができるでしょう?
暴力がなければ、守るとも言えないのですから、女性を従えることができません。女性を消費物として扱う、大義名分を失ってしまうのです。
だから、どうしても、彼らは暴力を必要とするし、その暴力も、娯楽として、楽しみます。
(リンクは張りませんが、この事件はネット上でおもしろおかしく消費されました。恐怖の対象ではなく、人ごととして、面白いものだとされたのです。つまり、男性は社会的制裁を受けるというよりも、ある意味で、称賛を受けています)
女性のケアワークと性行為は、どうしても必要なのです。そのために、暴力を担当してくれる男性が必要です。だから、制度の思惑通り、女性に対して暴力を振るう男性は、男性同士によって「よくやった」と賞賛されます。


男性には、二通りの道があります。
暴力を振るって、女性を怯えさせる役割を果たす方向。
もうひとつは、その暴力を利用して、「守る」と言って、女性を獲得し、女性のケアワークと性行為を扶養と交換すること。そして、女性に賃金を与えないことで、彼女たちの自主性を奪うこと。


女に自主性があったら、家父長制が保てません。それが保てないというのは、どういうことか、というと、まず、天皇制が否定されます。家父長制の象徴が天皇制だからです。
国会や、内閣は、天皇の承認によって成り立っています。だから、天皇制が否定されてしまうと、国家が成り立たなくなってしまうのです。だから、国家は、女性たちが自由意志によって、平等を主張し、戦うことを、徹底的につぶします。


ナショナリズムにどっぷり浸った男性たちは、自意識と国家への帰属意識が、ほとんど一体になっているため、ミソジニーを発揮し、ものを言う女を徹底的に揶揄し、あざ笑い、貶めます。
論理的ではない、主観的だ、端的にまとまっていない、意味不明だ、と、それがたとえ、単文だったとしても、数の力を頼むことができます。
ミソジニーホモソーシャルを維持することに有効です。ホモソーシャルは、男性を一体にします。
一体になった男性が、一斉に攻撃することは、もの言う女性への最大の攻撃です。
女性たちが一枚岩ではないことに対して、ホモソーシャルの男性たちは一枚岩です。
女性たちも生きなくてはなりません。ものを言っているばかりでは迫害されることは、目に見えています。たとえば、わたしは、女性たちを分断させるための、ホモソーシャル側のいけにえです。わたしにされていることを見れば、女性たちは怯えて、ものを言うことを差し控えることが賢いと考えるでしょう。
そうして、女たちは分断されます。
賢い女の立ち振る舞い、愚かな女の立ち振る舞いと、対比されて、男に評価されます。
愛されている女だったら、幸せな女だったら、こういうことはしない。
不幸なかわいそうな女だから、こういうことをいう。
そう、わたしは「悪い」女です。反制度的だからです。
反制度的だということは、反社会的だということよりも、悪いことです。
反社会的なことは、家父長制を維持するけれど、反制度的な態度は、それを邪魔します。
だから、女にモテず、二人の女性を刺した男は、「笑いの種」になるけれど、ミソジニーを笑うわたしは、受け入れられないのです。