寄り添えぬ言葉、変質、受容
ヴァルネラビリティがあると言われたので、調べてみた。
調べてみた、と言っても、ググっただけ。vulnerability。
もとは、社会学やセキュリティ、心理学、で使われた言葉らしい。
「可傷性・暴力誘発性・傷つきやすさ」と訳すらしい。
わたしはPTSDを発症しているから、こういう言葉は、トリガーになるなあと思った。
わたしがこの三日間、ネットで、けんか腰なのはそれが面白かったからだ。だからした。後悔していない。ただ、バカだなと思われるなあと思ってそれがつらかったが、もともとそういう意味で立ち回りがうまくないのは知っているし、立ち回りの下手さよりも、やってみたさの方が上回ったのでしてみた。
しかし、わたしの人格が、暴力誘発性がある、と言いたい人にとっては、犯罪に遭ったってことも自己責任みたいな話になるのかなあと思った。そういう意味でも使える言葉だと思った。
人の反感を誘発する、人の攻撃欲を刺激する、そこがあなたの落ち度なのだと伝うことにも使える言葉だと思った。
脆弱性がある人がいるとしたら、それにたいして、いかによりそうかが大切であって、指摘したり、ましてや罵倒として使うのは論外だと思った。脆弱性自体はすぐには修正できない。修正すべきだとも思わない。その人の持ち味だ。そういう風に、その人自身を受容して、そして、脆弱性自体は悪いものではないので、攻撃されにくいように振るまい、それでいて、自分らしさを出していくように支えることが大事なのではないかと思った。
犯罪被害者に、脆弱性があることは当然だ。また、ブログ記事を書くことで、脆弱性を強めているのもその通りだ。ブログ記事を読んで、攻撃したい、と言う人が現れるのは折り込み済みなのだから。それで、ためらったとしても、書きたかったから、書いた。
わたしにたいして、もともと、犯罪に遭うのは用心が足りなかったから、と言って来た人はほとんどいなかったが、それでも少しいた。
わたしは犯罪被害者だと言うことを公表しなかったから、言われずにすんだ。
ネットでは言われる分にはそれほど傷つかないので、公表した。
同じような被害者が、わたしの言葉で少しでも仲間がいると感じてくれるように書いた。
だから、わたしに脆弱性があると非難してくる人は、想定済みだけれども、宛先でもないひとたちだ。
犯罪被害者だと公言することが脆弱性と指摘される可能性もある。
それに従っていたら、被害者同士で連携すること自体ができない。
脆弱性があるから犯罪被害などに遭うのだ、という意見は論外だ。
脆弱性とともに生きた方が良い。
それについて、書いてあるのが、以下のサイトだ。
『他者からの攻撃や搾取などを招きやすい弱点や誘発性』
『弱さを強さに変える触媒』としてのヴァルネラビリティ(脆弱性):知の再編成と自律的ネットワーク化 カウンセリングルーム:Es Discovery/ウェブリブログ
このサイトでは、ヴァルネラビリティが強みになりうるとして紹介されている。
なにか、言論、意見を言うときには、「突っ込まれやすい」部分が必ずあるため、常にヴァルネラビリティがあると言える。
ヴァルネラビリティがあるからこそ、発展し、面白さがある、反対意見に対しての意見をさらに言うことで、メタ視点での面白さが得られると書いてある。
わたしは賛成だ。このような言葉の使い方には誠実性がある。
広がりがある。脆弱性のある面がある人がある、しかし、その人自体を無理に変えるのではなく、面白さ豊かさを引き出すことが可能かどうか、考えていきたいのだ…という風に読めた。
それは寄り添う言葉だ。
脆弱性のある人を、無理に変えるのは暴力だ。その人は十分に傷ついているからだ。
なぜ、脆弱性のある人になったのか、それを考えると、つらい経緯があるはずだと思いつく。
ヴァルネラビリティとは、推測するに、もともとは、脆弱性のある人に、それは、「もともとの性質ではなく、現象として、今の時点で、弱いところがある」と寄り添うための言葉だったのだろう。
それが、変質してしまって、一種の罵倒語として、成立してしまうことになった、というのが経緯のようだ。
どんな素晴らしい言葉でも、使う人間によっても、癒す言葉にもなり、攻撃する言葉にもなる。
人にはいろんな事情や精神状態があって、いろいろな発言をする。
それに寄り添える場合もあるし、寄り添えない場合もある。でも、寄り添うための言葉を、攻撃のために転じるのは良くないことだと思う。言葉を粗末にするのは、感心しない。
アスペルガーや、自閉症スペクトラム、精神疾患とは、医者が、患者にその苦しみに寄り添うために下した診断であって、他人が、みだりにその人をその性質でもって裁くために利用してよいレッテルではない。
また、犯罪被害者に遭った人や、そして、それが刑事裁判で認められなかった人、特に性犯罪に遭った人などは、行動に対する落ち度ばかりが責められて、彼、彼女らが、「あなたは間違っていない」という言葉をかけられると言うことはまれなようだ。
わたしは、犯罪に遭った後、適切な支援を受けたために、シャワーのように「あなたは間違っていない」と言われ続けた。それでも、体が動かなくなり、長い間眠っている時期が続いていた。
犯罪被害に遭った直後は、普段通りに生活しようとしたり、気絶してしまったり、倒れてしまったりするなど、変調が際立っていた。食べるものも、味が濃いジャンクフードに偏った。
犯罪被害に遭ったり、二次障害が元々ある人間が、発言したら、それは脆弱性がある行動をとりがちだと思う。でも、それは有意義な一面があると思う。
わたしが、一時期、みっともない行動をとったとしても、全体としては、まあまあ資料価値の高い文章を書いていると思っている。そう思わない人は読まないだろうと思って安心している。
わたしはネット上で、現実で、のたうち回りながら生きることを選んでいる。
わたしは正しくないことを書くだろう。書いているだろう。適切ではない、賢くない行動をとっているだろう。わたしは不完全なまま、現実を生きたい。
しかし、不具合はいずれは最適化されるものだと信じている。それは自分自身の変容によって、現実からの歩み寄りによって、最適化が果たされる者だと信じている。わたしは世界が善良であることを望んでいるのだ。
わたしは、今はまだ適切でも安全でもないが、そして、これからもそうであるとは思うけれど、今のままの自分が好きだし、このままいることを決めている。
今の自分が好きだ、というのは決断だ。欠点があり、弱さと見にくさが同居して、自己嫌悪の穴に落ちないようにするための命綱を自ら結ぶと宣言する行為だ。それを、あなたは完璧ではないからと言って後ろから命綱を切ることをしてはいけない、少なくともわたしはしない。されそうなときには、みっともないことを知ってはいても、反論する。
この前、六十代の男性が、戦争を推進する発言をした。わたしは、あなたは徴兵されないかもしれないが、わたしの知り合いは徴兵される世代だろう、あなたは徴兵されて死ぬことはないかもしれないが、わたしは知り合いが死ぬことに直面しなくてはならない、あなたはわたしの知り合いに死ねと言うのか、と言った。
わたしが発言することは、世間的には無意味だ。聞き流すのが一番良いことだ。だけど、わたしは聞き流すか迷って、でも言うことにした。それは自分のためにすることだ。わたしはあとで、あのとき言えば良かったと後悔したくなかった。その後悔は続くと言う確信があった。だから、場の空気が悪くなろうとも、わたしはわたしの信じることを言った。
わたしが自分の言葉を信じるためには、わたしは、周りの軋轢を覚悟しても、言う必要のある言葉がある。わたしはそう信じている。いつもいつも軋轢を覚悟してものをいう必要はないが、言っても良い場面だったら、わたしは言う。我慢しない。わたしにとって、人とうまくやることは、最優先事項ではないのだ。それよりも、わたしが自分らしく生きることがわたしにとっての最優先事項だ。わたしは自分のために生きている。それは、発達障害とは関係がない。わたしが発達障害と公言しているため、わたしの行動すべてをそれに結びつけるひともいるようだが、わたしの意思は、どちらにしてもわたしの意思だ。病気がさせているのだとしても、病気がわたし自身の一部であるから、切り離せない。
わたしは他人が寄り添ってくれることを希望するが、期待してはいない。
しかし、言葉はわたしに対していつも誠実だ。わたしは言葉に対して、
ヴァルネラビリティという言葉の出会いは悪かったが、いつか、良い付き合い方ができる気がしている。
わたしにその言葉を投げかけた人はわたしに寄り添うことはなかったが、言葉自体はわたしに寄り添っていくだろう。
わたしはヴァルネラビリティという言葉を知った。