c71の一日

生活の記録

赤い口紅

赤い口紅が欲しいと思う。

赤いグロスも欲しい。紫色の口紅も欲しい。紫色のグロスも欲しい。
色とりどりの化粧品がそろえば、眺めているだけでも幸せだろう。
今でも、毎日、好きな化粧品のブランドのサイトを眺めていて、なにを買うかが楽しみだ。

思い詰めると、全部買い占めたいと思ってしまうけれど、我慢している。
昔だったら、我慢できなかったと思うけれど、今は我慢できている。
一日我慢できたら、次の日も我慢しようと思う。
一日、一日、先に延ばしていけば、浪費癖も、落ち着くのではないかと思う。
わたしのこの焦りは、おかあさんからの、呪いを早く解きたいと願っているから、一日も早く、自由になりたいから、起きているのだと思う。

顔に色を塗ると、イメージが変わるので楽しい。化粧は、においと、感触と色合いに差があることを知った。
アイシャドウひとつとっても、同じような色でも、発色や、粉の細かさや、粉の柔らかさ、飛び散り方によって、色のつき方が変わる。ラメの細かさや色合いも違う。きらめきも違う。塗り方によって、イメージも変わる。グラデーションや、色の変化を見るのはとても面白い。組み合わせによっても、全然変わる。毎日試してみたい。化粧は自由だ。いろんな組み合わせによっていろんなイメージが生まれる。それはとても創造的だ。すべての扉を開けたいと思う。

新しい化粧品と、仲良くなってから次のを買おうと思うけれど、すぐに次のが欲しくなる。家でくつろいでいるときも、口にだけはグロスを塗っているときもある。唇が綺麗に見えるから嬉しい。良い香りもする。べたべたしない。わたしは良い香りのする口紅とグロスが好きだ。


わたしのおかあさんは、口紅はくさいと言っていた。わたしはそれを信じていた。だけど、くさくない良い香りのする口紅はたくさんある。おかあさんは、それを知らなかったのだ。かわいそうだな。と思う。

おかあさんの時代は、あまり情報がなくて、お金もなかったし、自分に使うってことも想像していなかったんだろう。そういうのが、かわいそう。


でも、その生活スタイルも、おかあさんがどこかしら自分で選んでいたんだろうと思う。

おかあさんにも呪いがかかっていたのは、間違いない。


おかあさんは、化粧をすることにも、ヒールを履くことにも、嫌悪感を感じていたようだ。



だけど、それをわたしに押し付けたのは間違いだった。



わたしの感じ方と、おかあさんの感じ方は違う。
別の人間だ。
でも、おかあさんは、わたしと自分の境界線を間違えていた。
自分と、わたしの区別を、つけられなかったようだ。


わたしは、小さい頃、おかあさんが赤い口紅を塗った顔が好きだった。でも、半年に一度見られるかどうかだった。
わたしが、大人になりかかったときに、おかあさんが、前歯に、赤い口紅をつけてしまってそのままにっと笑ったときに、わたしはおかあさんがいやになった。年を取ると、唇に縦の皺が入るから、丁寧に塗らないといけない。おかあさんは、そういうことを知らなかった。でも、他の人の化粧の悪口は言った。お化粧がきっと嫌いだったのだろう。


おかあさんが、自分の顔を嫌いだった証拠はたくさんある。
おかあさんは、わたしが化粧をすると、色気づきやがって、といって、髪をひっぱった。
チークを入れると、おてもやんと言って、笑った。

わたしは、自分の顔が好きだ。シミがあっても、ほくろが多くても、傷があっても、好きだ。
普通の人は、欠点ばかりを見ないのだ、と本当にわかってから、少しずつ、自分の顔が好きになった。
自分の顔を好きになることは、世界を信頼すること、外界、周り、周囲の人を信じることと同義だった。


おかあさんは、誰もあんたの顔なんて、見ていない、だから気にするな、と言っていたけれど、そんなことはない。
わたしは人の顔を良く見るようになったし、わたしの顔を見てくれる人もいる。
化粧をすると、褒めてくれる人もたくさんいる。
自分の顔を好きになったら、世の中のことを好きになった。
だから、化粧をすることは、わたしにとって、とても大切なことだった。
自分が嫌いな場所を、消すことができて、好きなところを強調できるのだから、精神にとても良かった。
毎日しなくて良い状況だから、よけい、そう思うのかもしれないけれど。

おかあさんは、励まそうとして、わたしにああ言ったのかもしれないけれど、わたしは慰められるような顔だと思われたことは、つらかった。結局、お前の顔を気にしているものなどいない、という言葉は、わたしにとっては呪いだった。



わたしの顔は、どちらかというと良い顔だ。そう思う。好きだ。おかあさんは、もしかすると、顔を気にするよりも、大事なことがあると言いたかったのかもしれないけれど、それでも、ああいわないでくれた方が、わたしには、ありがたかった。わたしは自分の顔を気にしてほしかったのだから。自分で気にしたい年頃だったのだから。気にしないことを褒められるのは、つらかった。
わたしは、自分の顔に歪んだイメージを持つようになってしまった。
必要以上に醜いと思って、まっすぐ鏡を見られなくなったし、写真を撮ることができなくなってしまった。だからわたしの写真はほとんど残っていない。


わたしひとりの写真というのはなくて、おかあさんが一緒に写っている写真しかない。
家族の写真もなくて、おかあさんと、わたし、二人の写真しかない。

顔を通して、人と人とがわかりあうことや、顔を認められることで、世界に受け入れられると感じることもあるから、興味があったら、化粧をした方がずっと良いと思う。


それまで、わたしは顔が嫌いだった。自分の顔にこだわりがあった。どんなに人に褒めてもらっても、可愛いと言われても、わたしはそれを信じていなかった。いつも笑顔でかわしていた。失礼なことをした。

わたしは家を出て、もう何年もたつのに、自分の顔がずっと嫌いだった。整形をしたくて、何十時間も調べた。


でも、わたしの顔は良い顔だ。目も鼻もはっきりしている。ほお骨とあごが発達しているのが嫌いだったけれど、最近は、丸顔よりも、ちょっと骨張った顔の方が流行っているから、顔の美醜よりも流行の方が大きいのだと知った。流行にあわせて、顔を変えるよりも、自分の顔を好きになった方がずっと楽だ。お金もかからない。整形するのだと思えば、化粧品を買うのは、全然問題ないことだ。



わたしは、化粧をすると、化粧品が減ってしまうことに、罪悪感を感じていた。だから、化粧をしなかった。

でも、今は、減るものだとわかったし、新しい商品をいろいろ試す楽しみがあることも知ったから、とても楽しい。


今日は、友だちからもらった、ランコムのオレンジ色のグロスをつけた。嬉しかった。柑橘系の、レモンみたいな、良い香りがした。嬉しかった。ガラスみたいに、ピカピカの唇になった。パッケージに音符がついている。こういう素敵なものをもらうと、気分がとても上がる。


友だちが遊びに来てくれたので、カニを食べて、製本をした。楽しかった。

わたしは人から化粧品をもらったり、あげたりするようになった。


本を読む以外にも、楽しいことはたくさんある。
装うことは、無意味なことだと教わっていたけれども、自分の気持ちが、五分でも、十分でも、楽しければそれで良いと思う。


惨めな格好をしていたときは、わたしは惨めだった。他には何も持っていなかった。わたしはずっと何も持たない、何にもなれない人だった。何かになりたいと本気で思ったこともなかった。だけど、何かになれといつもプレッシャーをかけられていた気がする。あなたは、特別なのだと。だから、普通の女のするようなことはするなと言われ続けていた気がする。
そんな暇があるのならば、少しでも、勉強しろと言われていた。


わたしは今も何者でもないけれど、でも、何者でもない自分のことが好きだ。何者にもならなくていいのだ。わたしはとても身軽だ。自由だ。わたしは何者でもない。わたしには自分の名前とこの体があるだけだ。
わたしは自分が大事だ。
大事なわたしには、赤い口紅が似合うだろう。


わたしは赤い口紅が塗りたい。