c71の一日

生活の記録

薬を飲まないと死ぬ

わたしの鬱は治らない。

障害が治らないから。手足が新しく生えてこないように、わたしの脳の機能は増えない。


世の中に順応するために、わたしにはストレスがかかる。そのストレスから逃れられない。その反応としての鬱なので、治らない。障害とセットだ。


だから、普通の人が鬱病はこうしたら治った、という話が存在しても、わたしの鬱は治らない。
ケースと種類が違うから。そして、その人は患者であって、お医者さんではないから、わたしの病気のことはわからない。


わたしに共感したつもりになる人はたくさんいても、本当には私の気持ちはわからない。
なぜなら、わたしとその人では脳が違うし持っているからだも違うから。歴史も違うから。親子関係も違うから。
そのことにたいして不遜な人はいる。


一般論として、母親のことは恨まない方が良いし薬は減らした方が良い、と助言してくれる人がいる。いろいろ直すべきことを言ってくれる人がいる。


世の中に適応するためには、直さないといけないことがわたしにはたくさんあるだろう。それはあるだろう。障害があるから。それが障害だから。普通の人が見て眉をしかめたくなるような「習慣」が、あるのが障害だから。人前であくびをするとか、おしりをかくとかに、気づかないという社会性のなさが障害だから。

ひとつひとつ直せば良いと思うのかもしれない。でも無数にある。わたしはどこかであきらめなければいけない。ここのところくらいで、社会と適応するのはあきらめよう。
それを決めるのはわたし。ラインをひくのはわたし。


でも、ラインを引くのが自分だと思っている人の方が多い。わたしを直したい人はとても多い。
言ったら直るから。ひとつひとつは直るから。


でも、薬の量は増える。
それは、わたしが社会と順応できてない、軋轢が増えたということだから。



わたしはおかあさんのことを憎んで恨まないと死んでしまっただろう。
ラインが引けなかったから。だから、二度と会うことはない。会うことになったら取り返しにつかないことに(わたしが)なる。死ぬかもしれない。命の危険がある。お医者さんもそう言っていた。わたしが母に会うことは、命の危険があることだと。


薬も同じだ。
わたしは薬を飲まないと緊張がとれず眠ることができない。それは病気だから。病気なのは障害が原因にあるから。気の持ちようでも生活習慣でもない。そういう緊張をしてしまう病気だから。薬を飲む。


わたしは命を預けて、お医者さんに通っている。それくらい信じている。お医者の腕は、わたしにはわからない。ただ信じている。死んでも仕方がないと思っている。


わたしに薬を断つことや減らすことを勧めたり、おかあさんにあったら?憎むのをやめたら?と言う人は、わたしの「お医者さんへの信頼をやめて、私のことを信じろ、そして、そのせいで死んでも誰も責任は取らない(取れない)」と言っている。お医者さんだって、わたしが死んだら、わたしの命には責任を取れないけれど、それが仕事だから。無免許で医者みたいなことを言う人よりもずっと良い。


わたしは健康のために薬を飲んでいる。薬を飲むとからだに悪いと言う人はいるが、薬を飲まずに、鬱病を悪化させたり、眠れなかったり、寝たきりになったりすることは健康に良いのだろうか?
その人はわたしの生活の質が下がることに対して、何を担保してくれるのだろうか?
どんなかたちで責任を取ってくれるのだろうか。
わたしを幸せにしてくれる?
そんなバカな。


嫌いなものから逃げるのは、生き物はみんなそうだ。当たり前だ。逃げないと死んでしまう。逃げて良い。嫌いなものを嫌いだと感じる心を大事にするのは、いやなものから逃げるセンサーを磨くことと同じ。


わたしは薬を飲まないと死ぬし、おかあさんに会ったら死ぬ。アドバイスされすぎても病気がひどくなっても死ぬ。わたしの障害手帳は二級だ。軽いわけじゃない。軽く見えるんだったら、わたしはすごく頑張っている、ということだ。軽く見えるから、もっと頑張れば、もっと普通になれるんだ、と思っている人はわたしのことを知らない人だ。
手足が生えてくるのを誰も期待しないだろうに、わたしには期待する人がいる。

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